無職2日目。

また朝からホットケーキを焼いて食べる。テレビをつけると東京オリンピックのチケットや会場について流れていて、妻は「これが始まる時、ぜったいに東京になどいたくない…!」と息巻いていた。僕も全くの同感であり、オリンピック開催中の東京都内で働く接客業、サービス業の人々の阿鼻叫喚が今にも聞こえてきそうである。宇多田ヒカルの「あなた」という曲には『戦争の始まりを知らせる放送も アクティビストの足音も 届かないこの部屋にいたい』という詞があるがまさにそれ。オリンピックの2週間は都心になど出勤せず在宅ワーク、もしくは家から近い東京郊外でひっそりと働いていたい。

昼過ぎ。退社した職場から電話があり、「あまりに人が足りていないのでアルバイトで良いからシフトに入ってもらえないか」という話をされる。やんわり断ったのだが、辞めてからまだ1週間も経っていない人間に頼ってなんとかしようというその場しのぎ感、行き当たりばったりのマネジメント(もはやマネジネントとも呼べないけれど)が、そもそも、人が定着せず辞めていく何よりの原因なのでは?と思い始めた。借金を返すためにまた借金をするようなものである。とはいえ無職なので、話を聞いた時「少しくらい小遣い稼いだ方がいいのかな…」などと思った自分もいる。でも断った。それでよかった。今は労働するときではない。こうやってちまちまと文章を書いたり、じっくりヨガしたり筋トレしたり、妻とお茶したり、図書館で好きなだけ本を借りたり、猫の世話をしたり遊び相手をしたり、ふつうの、特別でもなんでもない生活を、取り戻さなくては。

無職1日目。人々の生活の根幹。消費活動のような労働。

有給消化期間が終わり、昨日から本当の無職生活が始まった。妻も休みだったため、朝からホットケーキを焼いて2人で食べ、家の掃除やら洗濯やらを終わらせてから、天気も良いのでどこか都内の適当なエリアを散歩しようということになり、千駄ヶ谷の方に行くことにした。

新宿まで出て、南口からサザンテラス口を歩いた。横を見上げると、とても大きく重厚なビルがそびえ立っていて、入り口には「JR東日本 本社ビル」と書いてあった。妻が「エリートたちだね…」と小さく言った。僕はJR東日本の社長という立場にいる人には一体この世界がどんな風に見えているのだろう、などと思った。「これが無くなったら人々の生活の根幹が崩れる」ものを扱う企業のトップ、その人の心にあるのは責任感だろうか、それとも優越感だろうかなどと思った(多分どっちもある)

すぐ近くに「シェイクシャック」というニューヨークから上陸したというハンバーガー屋があり、それを見た妻が「これはね、美味しい」と言うので食べることにした。肉がジューシーで、ベーコンがカリカリにスモークされていて大変に美味しかった。妻はハンバーガーを頬張りながらウンウンと頷いていた。昼食を終えるとサザンテラス口を抜けて、代々木→北参道千駄ヶ谷と歩いた(ここ数日は家にばかりいたのですぐ息が切れた)原宿の裏を通り→表参道→南青山と歩いた。

表参道を歩いている時、後ろにいた女性2人の会話で、

「知り合いがあの店で働いてるよ(オシャレな洋服屋を指差し)」

「へえ、でも働いてるだけでしょー」

と聞こえてきた。身も蓋もないなと思ったと同時に、確かに「オシャレな街や店で働いている自分」というステータスが欲しくて就職する人もいるだろうと思った。面接や試験もあるから簡単なことではないけれど、採用さえされれば、パッと、その日から「オシャレな街や店で働いている自分」には確実になれる。なんとなく、消費活動みたいだなと思った(ブランド品やマイホームやマイカーを購入したことで、その日から目の前の生活がきらきらと輝き始めるみたいに)

原宿駅から電車に乗って家に帰り、夕飯は作り置きしていたルーロー飯を温めて食べた。玄関を開けた瞬間から猫たちの「ご飯出せ抗議」が始まった。猫たちにとっては僕が無職だろうと、オシャレな店で働いていようと、然るべき時間に然るべき量のキャットフードさえ出してくれれば、どちらでも良さそうだった。

猫の手術。食券機を置かない吉野家。コンビニ人間。

休日。

目が覚めると午前7時。朝は一気に冷え込んで来た。私のベッドの毛布の中、足元のあたりで猫が丸まっている。

この子は昨日、背中のできものを切除する手術を近所の獣医で受けて来た。

私は仕事だったので病院への送り迎えなど全て妻がやってくれた。手術は無事終わり、腫瘍も深くはなかったとのことで一安心。とはいえ再発しない可能性はゼロではない。まだ生後7ヶ月なのになんと前途多難な人生(猫生)だろう。しかし当の本人(本猫)は術後、家に着いてすぐ、いつものように部屋中を駆け回っていたというので、小さな身体で8針も縫ったというのにただならぬ生命力だと感心するばかりである。手術代は諸々込みで7万円。前々から考えていた「猫貯金」をしなくてはという話を妻とする。月々の貯金とは別に、猫たち専用の口座を一つ作って蓄える算段である。

 

 妻を仕事に見送り、洗濯と掃除を終えると、急に睡魔が襲ってきたので二度寝して、起きると午後1時。着替えて駅前まで歩き、吉野家で昼食をとる。

吉野家は経営方針として、食券機は設置せず、後会計の金銭授受によって、客にダイレクトに「ありがとうございました!」を伝えられるようにしていると聞いたことがある。実際にカウンター内には数カ所にレジが複数設置されており、客が「ごちそうさま」と会計するたびに店員が駆け回って会計をしていた。上層部のこだわりか何か知らないが、食券機を置いた方が従業員の負担も少なく、客もわざわざ店員を呼ばなくていいから色々スムーズだと感じるのは穿った見方なのだろうか(たしか松屋は客が食券機の『ボタンを押すのと同時』に、キッチンにオーダーが通るようになっていて、席につくとあっという間に料理が提供されるシステムだったと思う)

 

昼食を終えるとコンビニでフリマアプリで売れた品を発送し、無印で冬用のインナーを買い(無印良品期間中!)ドトールに入ってアイス豆乳ラテSサイズを注文して、家にあった『コンビニ人間』の文庫本を読む。

これがなんとも。今の私にとってタイムリーな内容だった。

こんなツイートをしながら、そもそも「悪意」とは?「悪」とは何なのだろう?などと考えこんでしまった。「悪意がないのだから悪ではないじゃないか」とさえ思えてくる。一番怖いのは「悪意はないのだろうけど、どこか不快だな…」そんな言葉を投げつけてくる人々である。

だいたいにおいてマウントを取ってくる人というのは「その相手が嫌いだから」という理由ではなく、羨望と妬みが根底にあるように思う。「なんで結婚しないの?いい歳なんだからしろよ〜」と言う人は、その本人が他の誰よりも自由恋愛の欲求に取り憑かれているし、「バイトなんてこの先どうするの?正社員で探せよ」と言う人は、自分の今の社畜状態が心底嫌で、フリーな働き方を強く渇望しているものである。まさに「親切という皮をかぶった、妬みと支配欲」である。

自身の安寧のために弱者をコントロールすること。

休日。

朝から近所の動物病院に猫を連れて行く。

下の子の方の背中に、数週間前から小さなおできがあり、それが潰れて膿が出ていたためである。

当の本人(本猫)は痛がる様子なく、いつものように部屋を駆け回り、目につくものところかまわず噛みつき、お姉ちゃん猫に戦いを挑み、平常運転だったので人間側も気にしてなかったのだけど、猫のできものは油断ならないし、膿が出たとなるとやはり心配で獣医に診てもらいたかったのだが、病院に着いたらなんと臨時休診。後日あらためて妻に行ってもらうことになる(猫からしてみれば、ただ朝からキャリーに入れられて近所を散歩しただけであった)

 

この下の子の方は、引き取った保護猫シェルターにいた頃からスタッフさんから問題児と称されるほどやんちゃで、我が家に来てからも手が負えないことがあり、ときに私も仕事から帰って疲弊しているときに、壁紙をガリガリされたり、爪を立てて体をよじ上られたりすると、我慢の限界が来て声を荒げてしまうことがある。しかし、猫はただ猫として、そこに生きているだけなのである。そこには善行も悪行も無い。「1歳を過ぎれば性格も落ち着くかも」と思ったりもするがそれもまた所詮、人間の希望的観測にすぎず、人間ばかりが「自分らしく生きたい」などとのたまう前に、猫の「猫らしく」を受け入れなくてどうするのだろう。

 

仕事に行く妻を見送ったあと、ツイッターを眺めていたら、吠えグセの治らない犬を去勢するための「吠えると電流が流れる首輪」なるものがあり、その商品のアマゾンレビューを批判するツイートを見かけた。使用者は夜間の鳴き声による睡眠不足や、隣近所からの苦情に悩み、その首輪を購入したようだった。レビューの文章は「吠えた瞬間痛みに苦しんでいて効果がありました!」などという胸糞悪くなる内容だったが、私が下の子にたいして時折抱いているであろう「自分の安心と安全のために弱いものを無理やりコントロールしようとする欲望」と深いところでは繋がっていて、このレビュアーたちと自分は、決して別世界の人間ではないのかもしれない。そう考えずにはいられなかった。彼らを「鬼畜だ、悪魔だ」と切り捨てるだけなら簡単である。

 

その後、洗濯をして朝風呂に入り、youtubeでゲーム実況動画をぼんやり見る(なんとも良い身分である)そのゲーム実況者は、かつて小学生だった僕と弟が、1年以上かけて苦労してクリアしたゲームを、ほんの1時間足らずでクリアしていた。

動画を見終えると駅前まで行き、郵便局でフリマアプリで売れた品を発送し、カレーのチェーン店で「オムカレー」を食べ、ブックオフを小一時間ふらつき、セブンイレブンでカフェオレを買って帰って来て、それを飲みながらこの文章を書いている。日はゆっくり沈み始め少し肌寒くなっている。二匹の猫たちは毛布や布団に埋まりながら静かに眠っているが、勿論この静寂は長くは続かないし、続かなくていいことなのだ。

 

宇多田ヒカル『初恋』一曲目の歌い出し「傷ついた時僕は一人静かに内省す」という歌詞について思ったこと

デビュー20周年の今年6月にリリースされた新盤『初恋』の一曲目、「Play A Love Song」の歌い出しで彼女はこう歌っている。

 

傷ついた時ぼくは1人静かに内省す

 

日常生活の中で何かに傷ついたとき、多くの人は誰かに愚痴ったり、誰かと飲みに行ったり、誰かに八つ当たりしたり(これはだめですけど)そういった自分以外の他者と接することで忘れたり癒したり紛らわしたりすると思う。

1人静かに内省する人たちはあくまで少数派なのだ。そもそも、傷ついたときに「一人静かに内省す」のだから、その人が傷ついてるかどうかすら周りの人間にはわからない、気づかれないこともあるだろう。そんな少数派の人たちが発する「声なき声」にたいして、もっと言えば、「自分の気持ちを本当は誰かに聞いてほしくても、環境や性格、さまざまな事情によって一人で抱え込まなくてはいけない、そんな孤独を抱きながら生きる人たち」にたいして、国民的歌手であり音楽家である彼女は、デビュー20周年を記念したニューアルバムの一曲目、それも第一声で「僕もそうだよ」と歌っている。

いきものがかり水野良樹はインタビューで「宇多田ヒカルさんの音楽にはとても深い孤独を感じる。でもその孤独が、他の誰かの孤独を救うことがある気がする」というような話をしていたし、村上春樹は「優れた小説家は人の心の奥深くを流れる地下水脈に小説を書くことで降りていって、その深く暗い場所で読者と繋がることができる」というようなことを度々話している。

「辛いことや悩みはとりあえず忘れてオシャレにパーっとウェーイしようよ」的な表現や創作物を否定する気は無いけれど、そういうのはもうお腹いっぱいだなと思ったハロウィンの夜。  

7月23日

休日。朝6時過ぎ、朝食を要望する猫に起こされる(その主な方法は、私の耳のすぐ側で鼻を「フンフン」と鳴らすものである)寝ぼけたまま台所に行ってキャットフードを器に出し、猫に提供するが、いつものように勢いよく食べる様子はない。この暑さで猫も疲れているのかもしれない。それでも完食し、便もちゃんと出ているので心配するほどのことはなさそうである。


妻は仕事。朝8時前に家を出て行く。玄関を出るとき妻が「あっ」と言うので、どうしたのかと聞くと「カバンの中で、水筒のお茶がちょっともれてる」と言う。私は「お茶だから気にしなくていいよ」と言う。しかしそう言った後で、もしも自分が妻と同じ状況(出勤する間際にカバンの中でお茶が漏れるという状況)になったら、けっこう気にしたことだろうと気づき、少し申し訳なくなる。


ツイッターを見ると、自民党国会議員が「LGBTの人は生産性がないから税金を使って支援する必要はない」などと発言し、炎上していると言うニュースがあった(雑誌にもその考えを寄稿したらしい)子どもを作ることができない=生産性がないと言う論理なのだろうけれど、この論理を用いると「たとえLGBTでなくとも、子どもを持たない夫婦=私と妻も同じく生産性がない」と言うことになる。私たち夫婦が養っているのは猫一匹だけだ(猫は働いて税金を納めたりしないし、もしも戦争が起こったとしても兵隊に取られたりしない)

さらに、自民党はこの議員の主張にたいして「それぞれの人生観がある」と容認するような姿勢らしい。ここ数年の政治ニュースは見るたびに虚無感と無力感でいっぱいになる。もうこの際、一切の政治ニュースを見ない方が日々楽しく過ごせるのではと考えることもある。そして、もしかするとそれこそが(私たちを失望させ、呆れさせ、政治に興味をなくし選挙に行かなくさせることこそが)政権を握り続けたい与党の狙いなんじゃないか、とさえ思えてくる。

とにかく「生産性」という言葉は、使い方によっては凄まじい切れ味を持つ言葉になる可能性を秘めている。それは多くの場合、工場とか企業活動に使われるべき言葉であり、少なくとも人間の生き方に使われる言葉ではない。


二度寝して目が覚めると10時半だった。掃除と洗濯をして、仕事で履いているコンバースのオールスターを洗う。洗剤で浸け置き洗いすると、厨房内で付着したカレーや油のシミが浮いてくる。ブラシでキャンバス地をゴシゴシとこすり、「劇落ちくん」でゴム部分を磨く。水ですすいでベランダの室外機の上に乗せて乾かす。
玄関のチャイムが鳴り、Amazonで注文したiPhoneの充電器(元々あった純正品は付け根部分が断線した)と、本二冊(小島信夫アメリカンスクール」と円谷才一「樹影譚」)が届く。梱包のダンボールを猫がクンクンと嗅いでいる。


家事を終え、駅前まで歩く。日差しは地表を滅菌できるのではないかというくらい鋭く熱い。ドトールコーヒーに入って届いた本を読むことにする。この休日の過ごし方にはたして「生産性」はあるのだろうか?そんなことは考えなくてよい。

 

7月9日

休日。妻は仕事。リビングでメイクや持ち物の準備をしている。私がベッドから起き、台所に行って二人分のコーヒーを淹れ、トーストを焼いていると、リビングから妻の「あー暑い暑い」という声が聞こえてきた。私は「ああ、アイスコーヒーにすりゃよかった」と呟き、冷凍庫からありったけの氷を取り出してカップに入れた。氷はきしきしと小さな音を立ててあっという間に溶けていった。トーストが焼きあがると、妻の方にはピーナッツバターを塗り(彼女のお気に入りである)、私の方にはピーナッツバターと苺ジャムを半分ずつのせた。それを見た妻は「わたしも半分ずつにすれば良かった」と言った。私は妻のトーストの端っこに、ほんの少しだけ苺ジャムをのせた。

 朝のワイドショーでは「看護師が入院患者の点滴に消毒液を混入し殺害した」というニュースがやっていた。逮捕された女性看護師は、事件当初のインタビューに「私は関わりありません」と震えた声で答えていた。不思議な震え方をしている声だった。それが嘘をついたゆえの震えなのか、ただ単純に緊張しているゆえの震えなのか、私にはわからなかった。

妻が仕事に行くと、部屋の掃除と洗濯をした。散らばったこまごまとした物を定位置に戻して掃除機をかけた。トイレ掃除をし、洗面台を磨いた。リビングのカーペットにはコロコロをかけた(もちろん何度やっても私や妻や猫の毛が取れなくなることはなかった)

ひととおり掃除を終えると、着替えて駅前に出かけた。無印良品で仕事用のズボンと、ブックオフで文庫本を一冊、スーパーで夕飯の材料を買った。ドトールコーヒーの前を通りかかったとき、アイスラテでも飲みながら文庫本を読もうという気になったが、思い直してやめた。

家に帰ると時刻は4時半だった。部屋の中はまだ明るく真昼のようだった。猫は寝室のベッドの下で「プープー」という小さな寝息を立てて(生まれつき鼻の調子があまりよくない)眠っていた。