わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

「する」ことばかりに追われる僕たちにオススメの本「しない生活 煩悩を静める108のお稽古」小池龍之介著

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東大を卒業して住職になり、鎌倉の月読寺と山口県の正現寺を行ったり来たりしながら、瞑想指導や坐禅指導、著書も多数。異色のお坊さん小池龍之介さんの著書。

僕たちはついつい毎日の生活の中で「〜する」ことばかりに追われて、それがいつのまにか「〜しなきゃ」に変わり、がんじがらめになってる。

僕なんて、休日だというのに、iPhoneのメモ帳にわざわざ「やることリスト」作ったりしてさ。

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「地味な休日だなー」という以前に、ヨガとかブログとか好きでやってることまでタスク化してるからどうしようもないですね。「今日のうちに全部終わらせなきゃ」と誰に頼まれたわけでもないミッションに追われてせかせかしてしまうわけです。そういうミッションクリアは仕事でやりゃあいいのにね。「俺、休日を有意義に過ごしてるぞー」という実感が欲しいんだろうな。我ながらくだらぬ。

 

本書では、あえて「しない」という生活を提唱してくれます。

①つながりすぎない

②イライラしない

③言い訳しない

④せかさない

⑤比べない

大きく5章に分かれてる。

 

複数の思考で心が混乱する理由は、私たちが「どの選択肢がより得か」を、計算したがる欲望にあります。けれども問題なのは、こうして考えをめぐりさせるとき、私たちは精神(と時間)を消耗して疲れてしまうということです。(22ページ【どちらが得かを迷うのは心にとっての損】より)

 接客しているとたまに「買い物するときは値札見ないようにしてるんです」というお客さんがいる。「ブルジョワか!」とツッコミたくなるんだけど、つまりは「すごく欲しい」と思った気持ちに対して正直なんだと思う。僕にはできないな〜と思いつつも少し羨ましい。金額を気にして、似たようなグレードを下げたものを買ったとしても、最初に感じた「すごく欲しい」という気持ちはないがしろにされたままになってしまう。

 

「ありえない!」という言葉に、ほんのり傲慢な響きが含まれているように思われる理由も見えてきます。なにせそれは、「起こるべきことと、起こるべきでないことは、全部、このワタクシの常識に沿って、決まるのである。他人と世界は、それに従いなさい」というニュアンスをはらむのですから。(80ページ【「ありえない」という否定語は傲慢で不寛容】より)

僕は関西出身なので中高生くらいの頃、めちゃくちゃ面白いことが起きたとき友達と「ありえへん〜!!」としょっちゅう言っていた。「ありえへんほどオモロイ」という意味で。けれど大人になった今、職場やプライベートのネガティブな場面で頻繁に「ありえねえよ」「ありえないんだけど」という言葉を聞くようになった気がする。仕事で凡ミスしたときに「そんな簡単なミスするとか、マジありえないわ」などと言われたらほんとうに何も言えなくなるよねー。「ありえない」という言葉の攻撃力、相手への制圧力、マジ半端ない。なるべく使わないようにしよう。使うときは腹抱えて笑うときが良い。 

 

脳は細かい変化(=無常)の世界を勝手に単純(=常)化して、現実を「自分にとって」の主観的な像に変えてしまうので、非常に非科学的な見方をする傾向にある。ひるがえって仏教は、脳に省略をやめさせ、ありのままに細かく分けて見る点において、科学的なものなのです。(150ページ「座禅瞑想で、鈍感になった脳をリセットする」より)

「これはこうだ!」と決めて短距離ダッシュする瞬間も必要なんだろうけどね。ただし、それが追い込まれて無理やりひねくり出した答えだったりすることもある。弱ってる時って「白か黒か」で考えがちだから。「仕事続けるのか?辞めるのか?」「別れるのか?付き合い続けるのか?」しまいにゃ「生きるのか?死ぬのか?」とか言い出してしまう。逆に頭が冴えている時というのは、何十通りもの選択肢を頭に思い浮かべられて、「どれが良いかな〜」と軽やかに思考できる。……と言いながら自分が今までそんな思考状態になれたことが果たしてあったかな、などと思い返すとこれまた皆無で凹むのだけど。

 

ひたすら修行に精進していた頃は、「静かなお気に入りカフェ」などというこざかしいものなど必要なく、どんな場所でも環境でも「ここが、今、心が静かになる場所」であり、仕事がはかどっていたことが思い起こされます。(196ページ【どんな環境でも今ここを「心が静かな場所」にする】より)

例えば「明日から三連休だー!」とウキウキで帰る電車の中なら、どれだけ帰宅ラッシュの満員電車でもみくちゃにされても静かな精神状態を保てる。これはただ単に余裕があるから。休み明け、会社に向かう通勤ラッシュはまあ無理ですね。ATフィールド全開。そもそも「落ち着ける場所はこことあそこで、落ち着ける時間はいついつで……」なんて決めつけちゃうのもマズイのかも。B’zの「さまよえる蒼い弾丸」の歌詞にある「無菌状態に慣れすぎみんなあちこち弱ってる」のように。

 

108の稽古が1ページに一個ずつなのでサクッと読めます。自分に必要なページは端っこ折っといて、たまに読み返すと良いかも。

よし、今度の休日は「やることリスト」でなく「しないことリスト」を 作ろう。

 

本を読む理由がわからなくなった人におすすめの本「読書力」齋藤孝

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読書は好きな僕ですが、

「どれだけ本を読んで感想をあーだこーだとブログに書いたところで、現実の行動に活かさないとイミないんだよな……きっと外に出て買い物したり色んな遊びを経験したり多くの人に出会うほうが価値があるんだ…書を捨てよ、町に出ようだ。読書なんて所詮友だちのいないインドア野郎がやることなんだ…」

なんて空虚な気持ちになることがたまにある(暗すぎ)

そんな弱った性根に「本を読むという行為そのものに意味があるのだよ」と強く励ましてもらえた一冊。

著者の齋藤孝さんは「声に出して読みたい日本語」で有名だと思うけれど、この方は「雑談力」や「散歩術」などというように『ぼんやりして数値化できないステータスを説得力ある基準で語る』のがとてもお上手だと思う。この「読書力」も、「本を読む力」という一見すると曖昧な概念について、例を挙げながらプレゼンしてくれる。

 

私の基準としては、本を読んだというのは、まず「要約が言える」ということだ。(18ページ「読書力とは何か」より)

 いわゆる「評論系」は要約ができてなんぼかもしれない。けれど小説はネタバレになってしまうので、まるで映画の予告編のように人に話せたら良いと思う。読書は会話力も上がるんだな。

いっぱい本を読んで、人にたいして「その人に合わせた本選び」みたいなのができたらすごーくステキだ。ただし「本をプレゼントする」ってとてもレベルの高いコミュニケーションだから下手すると押し付けになってしまう。相手のことを良く知って、なおかつ最近の心境や近況も考慮して選ばなきゃいけない。

 

唯一絶対の価値を持つ本があれば、場合によってはその本一冊を読めばよいことになる。しかし、そういったthe Bookと言われる特別な本がないとするならば、できるだけ多くの本、つまりBooksから、価値観や倫理観を吸収する必要がある。(46ページ「the bookがないからbooksが必要だった」より)

 ネットでも多様な価値観を知ることはできる。でも、なんと言っても本を読むのはすごく能動的な行為なのである。TVのように「ここは面白いとこだよ?」といちいち表示される字幕スーパーや恩着せがましい観客の笑い声SEもない。「この先が気になるでしょ?」というお膳立てがましいタイミングで入るCMもない。自分で選んだ本のページを自らの指でめくる。速読しようが遅読しようが流し読みしようが熟読しようが、その人の自由。そうやって出会った価値観はやっぱり血肉になると思う。

 

基本的な本を読んでいないことは恥ずかしいという意識が学生同士のテンションを高くしていた。現在の日本では、何かを知らないということは、恥にはならなくなってきている。本当は恥と感じて勉強をする方がお互いに伸びるのだが、「知らなくたって別にいいじゃない」という安易な方向に皆が向かうことで、総合的なテンションが落ちている。(54ページ「ビルドゥング 自己形成としての教養」より)

 「意識高い系」って、かなり罪深いコトバだなーと思う。TVでは「おバカタレント」がチヤホヤされて「みんなでワイワイ現状維持しよーよ」という雰囲気だらけ。シアワセならいーじゃんと言ってしまえばそれまでだけど、社会の上層の権力者からすると、庶民が「おバカな」ほうが搾取しやすいんだと思う。だから安易な娯楽を溢れさせて、エンタメやブランドやオシャレなお店知ってる人の方がモテたり一目置かれたりするように、マスコミやらメディアが流行作りをしてるんじゃないかとさえ思ってしまう。

今話題の(と、言えるほど話題になってないことが逆にゾッする)共謀罪だって、「共謀罪について知らないのダセ〜」という雰囲気がほんの少しでもあれば、いかにヤバイ法律か明るみに出ると思うんだけどな。

 

本を読むことで、この暗黙知や身体知の世界が、はっきりと浮かび上がってくる。自分では言葉にして表現しにくかった事柄が、優れた著者の言葉によってはっきりと言語化される。(85ページ「経験を確認する」より)

本を読んでると「これは自分がずっと考えていたことだ!!」 ということはよくあって、そんな瞬間は自分の悩みや苦しみを誰かに認められたような気持ちになる。けれど、あまりに消耗している時、すがりつくように取り込もうとすると、たとえそれが邪悪な物語だとしても内面化してしまうこともある(オウム真理教とか、奇異な殺人事件を模倣する人間みたく)だからこそ変に偏らず、幅広い著者を読んだ方が良いんだろうなあ。

 

とにかく「もっと本読みたい」と素直に思わせてくれる一冊でした。

【本の感想】人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 森博嗣

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森博嗣さんはスカイクロラのシリーズが好きで、エッセイも何冊か読んでいたのだけど、この方の考えや語り口は、僕にとってあまりに正しく、理性的で、バランスがあり、憧れの対象だったため逆に少し距離を置きたいという気持ち(そういうことって僕はよくあるんですけどどうなんですかね)で、なかなか著書を手に取れませんでした。

 

以下、僕的な要約です。

 

とにかく「具体的な」ものばかり求めてくる世の中。

世の中のほとんどの人はとにかく「具体的に」考え過ぎなのかも。自覚してるなら大丈夫だけど、無意識にそうなると視野が狭くなって感情的になってしまう。もっと「抽象的に」考えてみてもええんちゃう?というのが本書。

もちろん仕事や日常生活には、「具体的に」考えないと物事が前に進まない場面もたくさんある。上司とかがよく言うでしょ「もっと具体的に説明しろ」って(で、細かく説明すると「もっとわかりやすく!」と言われることも多々あるけどね)とにかく、具体的な思考と同じくらい抽象的な思考も大事。要はバランス。

 

「抽象的」を説明するためには「具体的な例」を避けられないジレンマ。

で、「抽象的な思考」って一体なんぞや?という話なんだけど、例えば……ちょっと待ったー!ここで「例えば」という言い方をした時点でそれは抽象的ではなくなり、「具体的な」話になってしまう。このジレンマ。だから「抽象的な考え方」を誰かに伝えるのってむずかしい。

 

バール”のような”もの。

例えば、たまにテレビのニュースでアナウンサーが「バールのようなものでドアがこじ開けられ、中にあった現金が〜」と言ったりする。あの「バールのような」はまさに「抽象的な」言い方。実際に使われた凶器がバールそのものではなく、バール以外のハンマーやらノコギリやらの可能性がある以上、「バールでこじ開けられ〜」と断定してしまうのはちょっとマズイ。「バールのような」という抽象的な言い方をすることで視聴者にガチガチな思い込みをさせないようにしてる。

 

抽象的に考えたときの発想は∞

例えば、誰かにジュース買ってきてとお願いするとき、

①「サッパリしたいからコーラ買ってきて」

と、

②「サッパリできる何か買ってきて」

という言い方がある。何が何でもコーラを飲みたいなら①でいいんだけど、あえて②の言い方をすることで、相手は幅広く考えて、新発売の炭酸ジュースを買うかもしれないし、自分も一口飲みたいからと、好物の”なっちゃん”を買うかもしれないし、飲み物にこだわらず、もしかしたら柑橘系のシャーベットやチューペットを買ってくるかもしれない。どれもサッパリできることに変わりないから。「サッパリできる何か」という抽象的な言い方をすることで、相手の自由な想像力と発想力を活性化させることができる。頼んだ方にしても、思いもかけずコーラ以外の新たな発見ができるかもしれないというメリットもある。

 

抽象的に考えて、具体的に行動するという黄金パターン。

「抽象的な考え方」は上手に使えば武器になる。けれど気をつけたほうがよいのは、考え方が抽象的になるあまり、実際の行動まで抽象的になってまうこと。僕らの目の前に積まれた問題というのはとにかく「具体的な」ものばかり。そしてそれを解決していけるのは、自分の手足を動かして行う「具体的な行動」のみ。だから、まずはぼんやりと抽象的に思考して発想を生み、そのうえで具体的行動にうつして形にしていく。言ってしまえば当たり前のことなんだけど、意識して「抽象的」と「具体的」を使い分けることができたら一番良い。

 

 

以下、印象に残ったところいくつか。

「あの島が日本のものだったら良いな」とは感じる。でも、そんな希望で話をするわけにはいかない。注意してもらいたいのは、「願い」を「意見」にしてはいけない、ということだ。

 もしかしたら議論する価値とは『異なる意見を一つの大きな願いに変えていくこと』なのかな、などと思った。みんなの意見を包括できるような客観的視点という意味での『願い』。

 

戦争だって、国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが、その国民の声がいつも正しいとは限らないことを、歴史で学んだはずである。

 一人の極悪人なんかより、今一番怖いのは大衆化した善人。リトルピープル的な。

 

一つ確実に言えるのは、「大きい声が、必ずしも正しい意見ではない」ということである。

「良いニュースは小さな声で語られる」とはよく言ったものです。

 

クリスマスイブには彼女とホテルで食事しなければならないとか、日曜日は家族を連れて行楽に出かけなければならないとか、子供の運動会ではビデオ撮影をするのが使命だとか、そんな具体的な「やり方」に縛られている(この三つの例は、いったい誰が得するのか、と考えてみよう)

 「1日3食。30品目食べよう!」とかも同じだよなあ。儲かる人がいるわけです。

 

歳を取ると、自分に無縁なものが増えてくるし、割り切れるようになる。なんの足しにもならない(ならなかった)、と処理する。こうして、欲求はすべて小さな具体的なものばかりになり、予感や願望だけの「美しさ」は無益なものとして排除される。ついには、もう毎日の自分の身の回りの損得しか考えなくなる。

 僕はたまにミニマリズムがあーだこーだと語ってるけれど、下手するとこの傾向に陥りがちなのでドキリとした。

 

わからないままにしておけないのは、それだけ思考能力が衰え、単純化しないと頭に入らない、という不安があるためだろう。

 仏陀さんだったか、釈迦さんだったか忘れたけど「悟りを開くとは、目に映るすべてのものを細かく、且つ明瞭に認識すること」みたいなことを言ってた。グラデーションの何百万分の一の色相を判別できるってことなのだろう。

 

人間というのは、遠くに目標が見えているのに、目の前に道があれば、方向が違っていても、もう今の道を歩くしかない、となってしまう。そのうち下ばかり見て、道しか見なくなる。具体的な手法を与えられると、その手法に拘ってしまい、目標を見失うことだってある。

 「運命を変える」というのはつまり、「遠くに見える理想のゴールを常に心に持ちながら目の前の細々したタスクを軌道修正していくこと」なんだな。簡単じゃないけど。

 

グサグサ突き刺さるコトバが盛り沢山でしたがとても楽しく読めました。読まず嫌いは良くないなー。

【本の感想】この世はウソでできている 池田清彦

この世はウソでできている (新潮文庫)

少し前に読んだ「他人と深く関わらずに生きるには」がとても面白く、ホンマでっかTVで好き放題言ってさんまさん笑かすだけのことはある人だなーと、一気にファンになり、こちらも読みました。

いつもなら読んだ本の実物写真を載せるんだけど、電車で寝ぼけて(だいたい電車で僕は寝ぼけている)せっかく購入した文庫本を席に置き去りにしてしまったため(泣)今回はAmazonさんから画像をお借りしました。 

 

 人類みんなマイノリティだと思えれば。

マイノリティを徹底的にバッシングすることに熱心な人は、自分がマイノリティになったときには逆に徹底的にやられてしまうのだということに思いが至らないのである。(18ページ)

マイノリティな要素なんてのは、誰もが多かれ少なかれ持ってるものなんだよなー。それを自覚するかしないかの違いがまずあって、自覚した人はそれを外部に表明するのか、一切を内に秘めたままにするのか、家族や身近な人にだけはカミングアウトするのか、人それぞれ向き合い方の程度のちがいがグラデーションとして存在するだけ。

だからマイノリティを叩く人たちというのは、

自分の中のマイノリティな部分と向き合うことをやめて、臭いものと決めつけて蓋しちゃった人たちなのかもしれない。

世間や道徳や倫理で形作られたマジョリティ層の中にいれば安心だから。そして、その安心の土台を強固にするためにマイノリティをバッシングする。それはたぶん、多くの場合においてマイノリティの人たちの価値観というのは、マジョリティの人たちの価値観を揺るがすからじゃないだろうか(自分のなかの暗部を見せつけられてると心のどこかで感じるのかもしれない)

もちろんマイノリティを表明する自由と同じように、蓋をしてマジョリティの安心の海に身を委ねる自由が人間にはある(だからといってマイノリティを叩く自由はないわけで)

 

 

リスクを取らないことがリスク。

あくまで標準的な治療を施し、その結果として患者が死んでしまっても「やるべきことをやった私たちに落ち度はまったくありません」と言って済ませればいい。(34ページ)

接客業やってるからかすごーくよくわかる。顧客の問い合わせにたいして、できる限り一般論、とにかく一般論、何が何でも一般論!で伝えることが染み付いてくる。「ああともとれるしこうともとれる」というひじょーに抽象的なコミュニケーション。ほんとはイエスorノー、白黒はっきり伝えたほうが話が早くても、何かあったときのことを考えてしまう。「あなたはこう言ったじゃない!」とならないための予防線。「この商品を買うことで私は必ず幸せを感じられる」と信じきっている顧客に対してはとくに。10000円支払ったからといって、かならずしも10000円ぶんの価値を享受できるわけじゃない。

どこかからコピペした一般論を言わなくて済むようになるには、どんな仕事でも、そのジャンルの知識と経験をじっくり年月をかけて積み上げたうえでの顧客とのコミュニケーションが必要なんだろうと思う(ベタだけど)

 

 引用を盾にした暴力。

コントロール欲の強い人間は、自分の価値観に合わない人間が気に入らない。ちょっと変わったことをやっている人をコントロールしようとする。しかし強制的にはできないので、「そんな名前ではいじめられるから」などといった、何かもっともらしい理由をつけるのだ。(53ページ)

 以前、国会で安倍首相がキラキラネームを批判したことについての話。「おれはキラキラネームが生理的にキライだ!」と正直に言ってくれたほうがたしかにスッキリする。

「君の社内の評判あまり良くないよ」とか「〇〇さんが君のことあんまり好きじゃないみたいなんだよね」とか言うのも同じ。ヨソから持ってきた出来合いの意見や理論で人を攻撃するのはほんとーに邪悪である。「社会人なんだから」「新入社員なんだから」「長男なんだから」そこら中に転がってる。というか、こうやって本の引用をして自分の言いたいことをつらつら書いてる僕もたいしてかわらんという事実。

 読む本を選び過ぎると、気づかぬうちに「自分の考えを正当化してくれる本」ばかり読む傾向におちいるので、たまにはぜんぜんカンケーない興味ない本を手に取って読んだほうがいいかもしれない(たとえば壇蜜さんとか叶姉妹のエッセイとか…意外とおもしろいと思う)

 

池田清彦さんの考え方はときに「極論すぎる」と思われるようなことも多いのだけど、「100%の理想をまず掲げたうえで、現実との溝を埋めていく工夫ができることこそ人間のすばらしいところ 」というようなことも他の著書で言っておられた。

ホンマでっかTVではニコニコしながら虫の話してるおじいさんなんだけど、著書はほんと熱かった。他のも読もう。 

 

ミニマリストらしく手ぶら通勤してみたらいつのまにかコンビニで立ち読みしていた話。

こないだ、前々からやってみようと思っていた手ぶら通勤をしてきた。

 以下持ち物!

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 ①薄い財布

スマホ

③ハンカチ

④イヤホン

以上!

私服通勤で、仕事道具はほとんど職場にあるから、この4つだけ上着のポケットに入れたら準備は完了。

 

いざ、家を出発。

玄関を出た瞬間からめちゃめちゃ心もとない。

いつもはリュックを背負ってるから背中がすごくスースーして不安になる。

「ほんとに大丈夫なのか?」「忘れ物してないか??」

違和感が全開。

けれど必要最低限のものはポケットに入ってるし、仕事道具は会社にすべてある。PCや書類を持ち運ぶような仕事でもないのだから、そもそも最初からカバンなど要らなかったのだ。バンを持って行き帰りしていた今までの通勤スタイルこそ、むしろ不自然だったのだ。そんなことを思う。

 

駅までの道。

身体がめちゃめちゃ軽い。

快適すぎる。

持ち物がない。カバンがないというのはここまで軽やかになるものなのか。

いつもなら憂鬱な、最寄り駅までのさえない道も両腕をぶんぶん振ってグングン歩く。はたから見たら朝のウォーキングに勤しんでるようにしか見えないだろう。

 

 果たしておれは本当に会社に向かっているのか?

この晴れ晴れとした感じどこかで。そう、休日ちょっと早起きして、洗濯も部屋のそうじもバッチリ済ましてから近所に散歩しに行く時の心持ちとたいして変わらないじゃあないか。

 

行きつけのコンビニの前。

行きつけのセブンイレブンの前にさしかかる。せっかくだから大好きなセブンのコロッケパンとちぎりパンをお昼に買って行こう(ふらふらと自動ドアから店内へ)セブンはすぐ商品切り替わるからな〜限定感出したいのは分かるけどリピートしてる顧客のことも考えてよ〜(ふらふらと雑誌コーナーへ)あ、今日水曜日か。マガジンなんて何年も読んでないなあ……(ページをめくる)

 

あ…ありのまま今起こったことを話すぜ!
おれはカバンを持たずに手ぶらで会社に向かおうと、駅に続く道を軽快に歩いていたと思ったら、いつのまにか近所のコンビニで立ち読みをしていた……

な…何を言ってるのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった。頭がどーにかなりそうだった……

仕事に行きたくないだとか、久しぶりにちょっと「はじめの一歩」が読みたくなっただとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……

 

 手ぶら通勤マジ危険かもしれない。

なんとかコンビニを離脱し、駅に向かう。

 

駅。

 通勤通学であふれる構内。ここでもやはり身軽なのでホームへ続く階段を、勢いよく駆け上がる。

 

電車。

電車内もすごく楽。イスに座る時もサッとスムーズ。立ってる時も身一つの範囲だからまわりへ配慮しやすい。僕は電車で立ってるとすぐ腰と背中が痛くなってくるのだけどそれが無かった。あの電車で立ってるときの身体のこわばりの正体って「揺れる車内でバランスを保とうとするから」とかではなく、度を超えて密集しすぎた他者への警戒と拒否反応の顕れだなのだと思う。物理的ATフィールド全開の副作用。

 

 会社到着。

後輩(25歳男)に「今日手ぶらで来たんだ」と伝える。「へえ〜面白いっすね」と反応良し。ある一定の年齢以上の人間からは「手ぶらで会社に来る」=「貴様やる気ないのか!けしからん!」 となる予感があるので上司には言わないでおく。

 

一日いつもとおり働く。

いつもとおり働く。いつもとおり。特に問題なし。

 

帰宅。再び駅。絶えず溢れかえる人の群れ。

 今日も仕事を終えた。帰る。帰宅ラッシュの人々で溢れかえる駅構内。ちなみに「手ぶら」でいる人は一人だけ見かけたが、ほとんどの人々が、皆それぞれにビジネスバッグやらトートやらリュックやらショルダーやらクラッチバッグやら旅行用の大きなキャリーケースを持ってる。そう、みんな荷物を持って、どこかに向かっている。

  

「荷物がある」ということは。

その人にとって「何かしらの成すべきこと」があり(それがどんなに些細で、どんなにくだらないことだとしても)その成すべきことのために「向かうべき場所がある」ということなのかもしれない。そしてそれは大多数の人たちにとって、きっと幸せなことなんだろう。

 

「荷物がない」ということは。

しかし僕は思う。もしかしたら「目的がない」という状態のほうが、じつは人間の本来あるべき姿に近いんじゃないのか?と。

「何かを成し遂げなきゃいけない」「何者かにならなきゃいけない」そんなコトバから自由になってからじゃないと見えてこないものもあるんじゃないだろうか。

そういえば村上春樹も言っていた。

「何かを求めていない自分」というのは蝶のように軽く、ふわふわと自由なものです。手を開いて、その蝶を自由に飛ばせてやればいいのです。そうすれば文章ものびのびしてきます。考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、”にもかかかわらず”、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。

 

結局はバランスなのか。

かと言って「生きてるだけで儲けもん」思考が強くなりすぎれば、マイルドヤンキー的、内輪的なヌル〜い人生になってしまうような気もする。だから、『一度手ぶらになって心身ともに身軽になったときに無理なく自然とやってしまうこと』に取り組めば良いんだ、というのが僕の結論です。

そう、僕がいつのまにかコンビニで立ち読みしていたように(目的もなくフラフラするのは意外と好きなんだろう)

 

 手ぶら通勤には薄い財布があるといいよ。

今使ってる薄い財布の話はこちら↓

【薄い財布のススメ】財布とスマホだけ持って近所の散歩でもしよう。 - わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

 財布すら持たず、スマホ電子マネー付きクレカで行くツワモノもいると思うけど、まずは財布をミニマムにしてみてはどうでしょう。これは楽天にて3000円くらいで買いました。 


 

レッツ手ぶら通勤!!

【靴1足生活】ドクターマーチンのオールブラックが便利すぎたので靴1足だけで春秋冬3シーズン過ごしてみたよー。

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どーもcoyoteです。

思えば僕は、2013〜2014年くらいにミニマリストの方々がインターネットのあちらこちらで公開していた『こんだけモノ減らしました!』『カバンの中身はこれだけ!』みたいな記事を、2017年になった今も古臭さを恥じることもなくドヤ顔で発信しているわけですが、自分としては持ち物紹介や、断捨離の記録話は、人のを見るのも自分で書くのもけっこー好きなので、こうやってちょくちょく書いていきたい所存であります。

 

・そんなわけで「靴1足生活」の話

この1年間、雨の日も風の日も雪の日も、来る日も来る日も毎日履いていた靴がある。上写真のドクターマーチン【1461 MONO】オールブラック。

靴1足生活が実現したのはこのマーチンがあったからと言っても過言ではない。べつに「ミニマリストらしく靴1足生活するぞー!」と決意して始めたわけではなく、この靴があまりに多用途性に富み、オールラウンダーで便利だったため、なにも考えずに毎日同じ靴ばかり履いていたらいつのまにか1年間、春秋冬の3シーズン過ごしていた、そんな感じ。

とにかくそれだけ良い靴だったので、靴への感謝の意も込めて良いところをガンガン書いちゃおうと思う。

 

 

・ドクターマーチン【1461MONO】の良いところ 

マーチンらしからぬ(良い意味でね)オールブラックのカラー。

マーチンといえば黄色のステッチが印象的だけど、この1461MONOはステッチが黒、靴紐も黒、ソールも黒、まさにオールブラック(もしも千利休が現代に生きていたら喜んで飛びつきそう)ズボンも何にでも合わせられる。ダメージデニム、キレイめデニム、チノパン、カーゴ、コーデュロイ、スウェット、なんでもいける。「さて出かけるか」と玄関に向かってから「何履こうか…」とコーディネートに迷うこともない。

 

②スーツにも合わせられる。

オールブラックだからスーツに合わせても違和感はない。

僕は私服で出勤、職場で制服に着替えるので、スーツを着るのは年に1、2回ほどしかない。その1、2回のためにスーツ用の革靴を買うのはどうにも億劫なので、私服とスーツ兼用できた点はとても助かった。

ただしオールブラックとはいえ、マーチンのゴム底バウンドソールが醸し出すヘヴィな雰囲気は、フォーマルな場やおカタイ会社のビジネスシーンには馴染まない場合がある。もしもその場に、服装のセオリーや着こなしのルールにたいして厳しかったりこだわりのある人が居合わせたなら、冷笑をくらう可能性もあるので、そういうの気にする人はちょっと気をつけたほうがいいかもしれない。

 

③雨の日も大丈夫

マーチンのゴム底のグリップ力は凄まじく、雨の日もすべらないし、ソールに厚みがあるからちょっとやそっとの水溜まりなら気にせず歩けてしまう。

雨や雪の日のために長靴やレインブーツを買おうとしたことはこれまで何度もあったけど、このマーチンに出会った今、「雨でも雪でもマーチンでなんとかなるから買わなくていいや」という考えに至った。

 

④とにかく履き心地、歩きやすさがバツグン。 

ドクターマーチンにはバウンシングソールというエアクッション内蔵のソールが使われていて、実際に歩いてみると「バインッバインッ」と跳ねるような感覚が得られる(こう書くとドクター中松ジャンピングシューズみたいだ)これには最初けっこう戸惑ったんだけど慣れるとすごく歩きやすい。地面を踏んだときに発生した反動のエネルギーが次の一歩にスムーズに活かされてる感じジョジョサンドマンみたい)靴全体の重量はそこそこあるんだけど、その重さがデメリットにならず、むしろ重さがあるからこそゴム底の力が発揮されている。すごい設計だ。もちろん地面のコンクリからの衝撃も吸収するので、隠れ腰痛持ちの自分にはほんと最高の履き心地だった。

 

⑤5年くらいは履けそう

この 1年間毎日履いていたのでソールは多少すり減ってきているけど、ちゃんと手入れしてカビたりしなければあと2、3年は履けそう。飽きるようなデザインでもないし。購入金額が2万円くらいだったのでコストパフォーマンスも非常に高い。

 

・「これひとつあれば大丈夫」の安心感。

 ミニマリストにも色々な種類がいて、

それぞれのシーンや用途に応じて上手くモノを使い分け(たとえば長傘と折りたたみ傘をそれぞれ所有するような)その一つ一つに愛着とこだわりを持つタイプもいれば、

とにかくズボラでメンドーだから、可能な限り少ないアイテムで多様なシーンに対応し、モノが少ないことそのものに喜びを見い出すタイプもいる。自分は完全にこっちのタイプである。

ただしこのタイプは、上のスーツのところで書いたように、ミニマリズムを追い求めるあまり一般的な良識から逸脱してしまうことがあるし、「結局お金がないからミニマリスト気取って、貧乏な自分を正当化しているだけじゃないのか」という避けられない問いと向き合わざるをえなくなる(このテーマについてはまた改めて書きたいのです)

ただ、今の時点で僕がわかっているのは、「これ一つあれば大丈夫」と絶大の信頼をおけるモノに出会ったとき、その喜びはほんものだと言うことです。

そんなわけで、この真っ黒マーチンは本当に良い靴。オススメです。

 

独学ヨガだからといってRPGで城の周りをグルグルしてるだけでいつまでも先に進まないようなヨギーにならないために。

どーもcoyoteです。

この5年間、ほぼ独学でヨガをやってきましたが、最近「独学」という言葉に甘えている自分がいます。確実に。

・自分の心地良い可動域内だけで行われるヨガ。

毎日10分の朝ヨガ。自分の限界の一歩手前…いやニ、三歩手前の負荷(もはや”負荷”ではない)でポーズをとり、そこそこ血流が良くなって、思考が多少スッキリして、風邪も引かないし太りにくくなった。それで満足している自分がいる。ヨガの基本的な教えにある『どれだけ足踏みしていい。跳ぶタイミングは人それぞれ(人によっては跳ぶ必要すらそもそもないよ)』というやさしい考えを都合よく利用し、自分の怠惰さと臆病さを正当化している。新しいポーズや上級ポーズに挑戦することはなく、ヨガクラスに出向いて客観的な意見やダメ出しをもらうこともない。あくまで自分が心地よい『可動域内でのみ』行われるヨガライフ。

 そう、まさにドラクエで最初の城の周りを延々グルグルと回りながら、スライムとかオオガラスのようなザコ敵だけを倒して、いつまでも先に進まないようなプレイスタイル。それが今の僕である。

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(痛恨のダメージを受けることは無い。劇的なレベルアップも無い)

 

・ときには無理してみることの重要性。自らすすんで引き受ける痛みについて。

例えば、仕事でたまたまついた上司が最悪なクラッシャー上司だったとか、理由もわからぬままクラスでイジメの対象になったとか、自分が一切望んでいない痛みを、ただ黙ってバカ正直に引き受ける必要は全くない(そういう理不尽な暴力にたいして我慢して忍ぶことを美徳とする日本の古い価値観はさっさと滅べばいい)けれど、今の自分に必要な痛みをちゃんと見極めて「バッチ来いやー!!」の気持ちで引き受けることはとても大事だ。次の街を目指して、ワンランク上のモンスターたちに四苦八苦しながら少しづつレベルを上げ、強力な武器を買い、おのれを進化させながらゲームを進めなければならない。口で言うほどカンタンじゃないけれど、その戦いはただの痛みではなく経験値になる。生きている実感になる。ただし人間は生存戦略のために、良い痛みも悪い痛みも見境なく「これはボクが成長するための痛みなんだ!」と、自分の心と身体をだましてでもサバイヴしようとするやっかいな生き物なので、「自分にとって必要な痛みとは何なのか?」という点についてはじっくり時間をかけて(数年かかったっていい)熟考したほうがよい。

 

 ・ほぼ独学ヨガしかやっていない人間(つまり僕)が独学ヨガについて語ったり伝えたりすることの危険性。というかダサさ。

上記のように、「城の周りをレベル1のままグルグル回り続けている人間」が、一人マイペースにおのれの世界だけでヨガを楽しんでいるのならまだいい。しかし、僕のように生意気にも「独学ヨギー」と銘打ち、ブログでヨガ関連の書籍や動画の紹介をしたり、初心者向けのポーズを提案して、「独学でヨガやってみようかな?」と興味を持ってくれた人たちにたいして、曲がりなりにも道筋を示す立場を取っている。

ここに、大きな問題がある。

自ら成長を止めた人間が、他者にその道について語ったり、伝えたりすることは、主観的にも客観的にも、一切において面白みがないのだ。正しいとか間違っているという話ではない。とにかく「面白く」ならない。何よりも記事を書いている自分自身が心底楽しめていない。

山頂へのルートを人に教える立場の人間は、そのルートを「知っているだけ」では全くもって駄目であり、少なくともそのルート上においては誰よりも先を「実際に」歩いていなければいけないし、できれば自分が歩む道だけでなく「無数に存在する他の登頂ルート」も熟知していることが望ましいのだ。

しかし、今の僕はその基準を一切満たしていない。だから、独学ヨガにたいする向き合い方を変えなきゃいけない。

 

変えること その①「柔軟性の限界値をもっと上げる」

冒頭に書いたように今の僕は無理なポージングは一切やらず、心地良さだけを求めたヨガをやっている。けれど今後は、積極的に筋肉痛を引き受けていく(筋トレで筋肉が縮むことで筋肉痛になるように、筋肉を極度に伸ばすことでも筋肉痛は起こる)

具体的には、

・座位前屈 床ビッタン

開脚前屈 床ビッタン

・前後開脚 床ビッタン

この3つを目指す。

「生まれつきの骨格によってはできない体勢もある」

「柔らかければいいというものでもない」

「ヨガは他人と比べなくてもいいですよ」

自分とのたたかいなので、今はそういう言葉は要らない。やると決めたなら、やるのだ。背骨や骨盤が歪んでいるならば整体やらカイロやらに通って直しながらでも柔軟性を高めようと考えている。とにかく、毎朝寝ぼけまなこで行っている朝ヨガも、毎日ほんの少しでいいから、自分の限界を0.1ミリでも超えようという意識をもって行う。

 

変えること その② 「ヨガクラスに行く」

 そもそも僕が独学ヨガや自宅ヨガに傾倒していったのは「ヨガクラスの雰囲気に馴染めない」という一つの大きな理由からだ。しかし、雰囲気に馴染めないなんて、考えてみれば当たり前のこと。だって、他人の集まりの中に一人で入っていくのだから。初めての場所で緊張するなんて当然のこと。ここでも僕の「心地良さ重視の性格」が悪い形であらわれている。数ヶ月通い続ければ慣れるかもしれないし、考えてみれば、そもそも僕は「きっとどこかに自分に合うヨガクラスがあるはずだ!」という前向きなマインドで探しただろうか?片手の指で数えられるほどのヨガクラスを体験しただけで「家でやるのが1番だわー」と安易な結論づけをしてしまっていたのではないだろうか?今こそ、ほんの少しの勇気を出して、ヨガクラスに行かなくちゃならない。

 

 ・独学ヨガや自宅ヨガを否定するわけでは決してなく。

本ブログにおける独学ヨガに関する記事を読んだことがある人は、この文章を読んで「言ってることぜんぜんちゃうがな」とツッコミを入れると思う。ただ、僕がヨガを始めた頃から疑いようなく感じていた、女性人口がメインのコミュニティに男一人で入っていくことの気まずさ、そして居心地の悪さ(自意識過剰と言われるだろうけど)によって、ヨガをやってみたいけど二の足を踏んでいる駆け出しヨギーの男性陣たちに「まずは気楽に自宅で独学ヨガから始めてみていいんじゃない?」と提案していきたい気持ちは全く変わらない。だからこそ、その提案をもっと面白く、説得力をもってできるようになりたいのだ。

 

・過去にストックした知識を倉庫から引っ張り出してドヤ顔するのはもうやめて、現在進行形の、自分が実際に行動しながら得た知識や感じたことを、独学ヨガブログとして書いていきたい。

しょーもない上司による、若き日の武勇伝ほどつまらないものはない。

つまりはそういうことなんだ。

 

新年なのもあって決意めいた文になりました。

暑苦しかったらごめんなさい。

2017年もよろしくどうぞ!