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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

風呂での読書について思うこと。

僕は風呂でよく本を読む。昔からだ。風呂で読書するメリットはいろいろある。個室に1人だから集中できるし、半身浴でゆっくりつかりながら読めば汗もかいて代謝もアップ。身体にもいい。

しかし、やりすぎは禁物だ。

二〇代の半ばごろ、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にはまったときは、あの3巻にわたる長い小説を毎夜毎夜の風呂タイムで飽きもせずに読んでいた。たぶん1〜3巻を4周くらい読んだ。おかけで第1巻などはもうボロボロである。

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浴室内の湿度、水しぶき、手指からの汗で、本の項は濡れて曲がり、そして乾き、パリパリになる。古本としての価値もとうぜん失われる。元どおりにもどすことはできない。「不可逆」である。しつこいけれど、ドラマ「カルテット」的にいうところの「からあげにレモンをかける」と同じ。世の中は不可逆なものであふれている。

「付箋を貼りながら本を読むこと」の記事でも書いたように、夢中になった本、 お気に入りの本だからこそ、線を引いたり、水びたしでパリパリになどせず、きれいなままにしておきたいと思う。だから風呂で本を読むときは、換気扇をつねに回して湯気を逃がし、濡れた手ではけっしてページをめくらない。完全防水ブックカバーなるものがあるらしく、ちょっと気になっているくらいである(どれだけ濡れても気にならない『風呂読書用の本』を何冊か用意しておくというのも一つの手かもしれない)

けれど、ふと思う。

あの頃たしかにあった「本が濡れてひん曲がってバリバリになることなど気にもせず、ただひたすらに本の内容に没頭していた自分」は、どこか遠くに去ってしまったのだな、と。

二〇代も後半にさしかかったころ、僕は若くしてかかげた目標をあきらめ、夢から遠ざかり、アルバイトをかけもちしながら将来へのぼんやりした不安をかかえて淡々と日々を暮らしていた。そんな小さな絶望から目をそむけるために、あるいは救いを求めるために、読書にふけっていたのだと思う(そのとき手にとったのが、たまたま村上春樹の小説だったのか、もしくは村上春樹の小説だったから、そこまで読書に没頭したのか、今になってはわからないけれど)

とにかく、そのころの僕は風呂で本を読むというのにブックカバーすらかけていなかったし、本を浴槽のふちに置いて放置したまま髪を洗ったり(ほんとうにひどい)、睡眠不足のまま寝落ちして本を風呂ポチャしたことも何度もあった。なんとも稚拙ではずかしい。ただ、そんな横着で、大雑把で、青くさい読書体験を、今になって少しいとおしい思えるような気がするのだ。

‥‥‥自分語りみたいになってしまったけれど、風呂読書はまだまだやめられそうにない。休日の前の夜に、お気に入りの本とあつあつのお茶、あるいはキンキンに冷えたジュースなどをお供に(なんならお気に入りの入浴剤も入れて)じっとり汗をかきながら本の世界に浸るなんて、やっぱり最高だと思うから。

【本の感想】いつもの毎日 松浦弥太郎著

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今でこそ、お気に入りのモノ紹介がSNSやブログでたくさん発信されている(ぼくも例にたがわず)けれど、松浦弥太郎さんはそういうものの元祖と言ってもいいかもしれない。

ともすれば、モノ自慢におちいりがちなモノ紹介だけど、この方の文章はふしぎと引きこまれる。なんなら「さて、自分もブルックスブラザーズの白シャツを買ってみようか‥‥。」などと思わせられてしまう。

 

まず、「シャツ五枚、ニット三枚、パンツ五本、ソックス一〇足」というようにワードローブのキャパシティを決めます。次に、「シャツの袖口がすれてきたら、同じものを一枚買う」という具合に、どんなときに何を買うのか、買い物計画をあらかじめ決めます。(69ページ「値段とファストファッション」より)

 こういう基準はほんとたいせつだと思う。もっと少なくてもいいんじゃない?とついつい思ってしまうけれど、ある程度の数があったほうがローテーションできて洋服も長持ちする。ここ数年、断捨離とミニマリズムの名のもとに減らすことばかりやってきたけれど、良い状態で長く着ることを考えればもう少しストックを増やしていいのかも‥‥などと思ってる。たいせつなのは、自分が心地よく守れるくらいのルールをもうけること。

 

「二〇万円のテーブルなんて考えられない」という人が、一〇万円するブランドバッグを平気で持っていたりするのは、どうにもバランスを欠いています。バッグを持って出かけるのは週に数回でも、テーブルは毎日、接するものです。(92ページ「テーブルと椅子」より)

「 使用頻度の高いモノこそこだわりの一品で」この考え方もやはり大切。一日中本を読む人なら一〇万円の椅子だって高くないんだな、きっと。そしてミニマリストの場合、 

 

所有物が少ない→限られた持ちものすべてが毎日のレギュラーになる→毎日使うものだからとすべての所有物をこだわりの一品でそろえ始める‥‥

 

‥‥こういう流れになることがあり、僕もこれまではそうあるべきだと思っていて実践していたんだけど、ふだんの生活において、すべての持ち物がこだわりの一品でバシッと決まりすぎているのも、ちょっと息ぐるしいかもなと最近感じるようになった(これはけっこう大きな気持ちの変化だ)

同じ毎日がずっと続くように思えても、人生には小さな変化やメリハリ、彩りがある。仕事での勝負どころや大事な人に会うハレの日もあれば、コンビニに唐揚げ買いに行って家でダラダラ昼寝したら日が暮れる日もある。そんな日々のグラデーションによって使い分けができるくらいのモノは所有していいかも。

 

これしか持たない、使わないという意味ではなくて、その時に自分が好きなものこそ自分にとっての定番になるんだということ。でも、時間が経って変わることもあるし、僕の中にも矛盾はあります。(184ページ 菊池亜希子さんとの対談のなかで)

松浦さんのような、モノへのこだわりを極めたような人でも矛盾はあるんだなあと。「これがわたしの定番」とひとつ決めてどんとかまえたい気持ち、それはときとして、あふれかえるモノと情報から耳をふさいで安心するための常套句になってしまうこともある。「このブランドこそ自分にぴったり」と一つのブランドで買いそろえれば気分も一新、とてもすっきりする。僕も二〇代のころブーツが大好きで、レッドウイングやチペワを2、3足そろえて「よーし、一生ブーツでいこう」なんて息巻いていた。でもそれは一時期の思いこみだった(気づけばシンプルな革靴しかはかなくなっている)自分がこしらえた「ブーツが最高というイデオロギー」に自らが取り憑かれていたのだと思う。

たいせつなのは、

「ぼくは〇〇が好きだ!(今はね)」

という、この(今はね)というカッコ内の柔軟な気持ちのあり方なのかな。ドライにきこえるかもしれないけれど、変化するからこそ、そのときそのときに好きなものにまっすぐ向かっていく。そのうえで、そんな「お熱になっている自分」をすこしでも客観的に見ることができれば、「変化していく過程」もふくめて楽しめるんじゃないだろうか。松浦さんの文章の魅力は、「自己矛盾」を肯定しているところにあるのかもしれない。

 

本書では他にも、上質の白シャツは「アイロンかけ→フォーマルな場」「あえてのちょっと皺あり→普段着」「腕まくり→夏に半そでの代わり」と多様に使い分けができる話や、「何年も同じコートをきれいにたいせつに着ている人」を見ると嬉しくなる、といったすてきな話がたくさんでした。

 

付箋を貼りながら本を読むこと。

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近ごろは付箋を貼りながら本を読んでいる。

それまでは「ペンで線を引く」、もしくは「ページの端を折る」ことで気になったくだりにチェックをいれていたけれど、いざ付箋を使いはじめるととても快適。

 

本がきれいなまま。

ペンで線を引いたり、ページの端を折るのはたしかにわかりやすいし素早くできて効率もいい。けれど消すことはできない。不可逆。ドラマ「カルテット」的に言えば「からあげにレモンをかける」こととおなじ。元どおりには戻せない。

ペンでの書きこみや端折りは、いつか古本として買い取ってもらうときにも値が下がるし、「この本おすすめだから読んで」とだれかに貸すときも印はついてないほうがよい(本を読んでいて、前の人の「気になったくだり」がこれ見よがしに目に入ってくるとやっぱり気になる)

 

読みごたえがあった本かどうか、あとから一目でわかる。

読んでいてグイグイ引きこまれ、ハッとさせられる箇所が多かった本は貼る付箋の数もふえる。1ページごと、1段落ごとに気になるくだりが見つかり、付箋だらけになる。逆に、いまいち自分にささらなかった本は付箋の数が少なくなる。本棚にならべれば一目瞭然。「これは読みごたえあったなあ」という本をすぐ見つけて再読できる。「あんまりピンとこなかったなあ」という本も、「今ならわかるかも」と再読できるし、あるいはあきらめて売りに出すこともできる。

 

色によって付箋を使い分ければより本の理解度が上がる。

これは齋藤孝さんの「3色ボールペンを使った読書術」からの完全受け売りなのだけど、

「本のテーマといえるような重要な一文」→の付箋

「テーマとまでいかずとも要約にはかかせない大切な一文」→

「テーマとは少しはなれるが自分が印象に残った一文」→

そんなふうに分けてみることで、以前読んだ本でも「全体のテーマや要約を追いたいときは赤と青の付箋」を引いたり、緑の付箋がやたらと多い本は「自分の価値観に近く、さらに発見も多い本だったんだな」とふりかえりやすくなる。

 

どんな付箋が良いか。

ポイントの1つはやっぱり「細さ」だと思う。理想的な細さは文章の一行ごとに印をつけられる4〜6㎜幅くらいのものが良いと思う。

先日買ったのはこの「ココフセン」という商品。

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これは付箋が色ごとに小さなポケットにストックされていて、そのポケットを本の脇や、手帳にはりつけることができる。もちろんこのポケットは剥がすのもかんたん。跡ものこらない。箱ティッシュの要領で、付箋が1枚ずつ取りだせてもたつかないので、電車で立ちながらの読書でも、ピッと1枚だけを片手の指でつかめる。

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 松浦弥太郎さんの紹介文のまわりにペタペタと貼っちゃった。なんだかすいません。

100円均一でもぜんぜんいいんだけどね。付箋も進化してます。

【本の感想】ブランドのデザイン 川島蓉子著

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企業のロゴマークや商品のパッケージデザインの由来を知るのはけっこう好きで、気になって読んで見ました。読んでみると、企業におけるブランディングという大きな話にかぎらず、自分がこうやって書いているブログや、ツイッターやインスタグラムで個人が発信するときのコツみたいなものがたくさん書かれていました。べつにプロブロガーだとかアフィリエイターだとか、収入を目的にやっている人に限らず、趣味で自分の情報を発信している人も、「もう少し工夫してみようかな?」といろいろ発見がある一冊です。

 

 「ウーロン茶」の広告で、「ウーロン茶はおいしい」とか「ウーロン茶は身体に良い」といったような、商品の優位性を伝えるものは決して多くない。それよりも、「ウーロン茶」の故郷である中国ー近くて遠い国における人の有り様を描いている広告がほとんどであり、それによって、「ウーロン茶」を取り巻く世界観を伝えている。(71ページ「ブランドはお客様の頭の中にある連想を広げること」より) 

 商品そのものではなくて、それを買うことで自分の生活がどんなふうに彩られるか。どんな楽しい気持ちになるか。そういった目に見えない「気分」とか「雰囲気」というものは思った以上に大切。人の心が動く=「欲しい」と思うときってそういう瞬間。細かいスペックを気にしたほうが良い場面もあるけれど、そこはある程度慣れちゃうし、スペックを気にして買い物してばかりいるとこれまた疲れる。他にも、「キューピーマヨネーズ」が、マヨネーズをいっさい映さず、野菜だけを登場させた広告の例も書かれています。マヨネーズという高カロリーの食べものをヘルシーにプロモーションするってやっぱりすごい。

 

奇抜なファッションに身を包んだタレントが、ありえないシチュエーションを演じる。現実味がまったくない景観の中に、端正この上ない佇まいで商品が置かれている。可愛らしさや甘い雰囲気を前面に出して、妙に女性に擦り寄ってくるーそんな広告を目にすることが多いのだ。(111ページ「宣伝は資本である」より) 

「若い人に車が売れない」とよく言うけれど、車のテレビCMを見ていると、「はなから若い人には売る気なんてあまりないんだろうな〜」という気持ちになってしまう。CMの中では、40〜50代のダンディな男性が夜の都心のハイウェイを高級車で疾走し、あるいは、子どもが2〜3人いるファミリーが大きなワゴンでキャンプに出かけたりする。あまりに現実とかけ離れている(あくまで僕の現実とだけど)「共働きの子なし夫婦が、何ヶ月かぶりに同じになった休みの晴れた日に、目的の場所もなくフラッと小さな軽に乗って出かける」そんなCMだったら心動いてしまうかもしれない。「これはいったいどこの世界の話なんだ?」ではなく、「これは僕の世界にも起こりうるかもしれない」そう思わせられるとき人は「欲しい」「買いたい」と思うんだろうな。そう考えると、ユニクロのテレビCMや無印の広告は「ほぼ全てに人に起こりうるであろう物語」を発信してるんだよな。

 

情報が豊かになったと言われているが、実際は知識のスローイングとキャッチングを繰り返すだけで終わっている。そうではなくて、情報の受け手を、さらに活発な思考へと導く、つまり脳を連動させることが情報の本来の力であるはず。したがって「知らせるのではなく、いかに知らないかを分からせる」というコミュニケーションの形(254ページ「情報を未知化する」より

 前回紹介した長田弘さんの「読書からはじまる」でも印象に残っている「読んだ本、読むべき本よりも、”読まない本”が存在することの大切さ」に通じるんじゃないかなあ。内田樹さん的に言うと「知性が活性化する話」。

なんというか、「ほんとうに良い情報」って、すぐに頭では理解できなくて、「実際に身体を動かして確かめなきゃわからない」ものなんじゃないかな。「買って、確かめたい!」という気持ちこそが真の購買欲。カルチャーやムーヴメントだって、人間の身体があちこちにリアルに動くからこそ起こるわけで。

 

”シンプル”ということについて原氏は、「シンプルの品質は思考の総量が決める。ただ単純なのではない。同じシンプルでも、考え抜かれたシンプルかどうかが重要」という。幾何学的に簡素であるというだけではなく、それが「多様なイメージを一身に受けとめられる容量の大きな器として機能するかどうか」。(256ページ「品質は思考の総量が決める」より)

「考え抜かれたシンプルかどうかが重要」……痛い言葉だなあ。「僕がやっているのはしょせん、貧困ゆえのミニマリズムなのか」この問いに果たして答えは出るのでしょうか。

 

 読んだのは文庫版ですが、文庫はどうやら在庫薄のようです。実際の広告ポスターなどもたくさん引用されてるので単行本でも読みたいかも。

【本の感想】読書からはじまる 長田 弘著

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本屋で何気なく、表紙と、背表紙と、題名が気に入り、気づけば手にとってレジに並んでいた。最近はこう、ジャケ買いというか、「家の本棚に並んでいたらなんか良い感じかも」という基準で本を選ぶことが多いです。著者は詩人の長田弘さん。

 

「読書することで語彙力アップ。コミュニケーション能力を培う」

「読書することで世界中のあらゆる価値観に触れることができる」

そういった読書論とは180度まったくちがった角度から書かれた「本を読むこと」についての本。

 

「読む本」「読むべき本」が、本のぜんぶなのではありません。本の大事なありようのもう一つは、実は「読まない本」の大切さです。図書館が、一人一人にとっては、すべて読むことなど初めから不可能な条件のうえにたってつくられるように、「本の文化」を深くしてきたものは、「読まない本」をどれだけもっているかということです。(6ページより)

仮に、のこりの僕の人生時間のすべてを読書についやしたとしても、この世界に存在するすべての本を読むことなどはできない。当たり前のことなのに、ときにその事実が無力感を突きつけてくることがある。けれど、もし仮に、図書館に住んで、食べて、寝てをできるとしたら、何千何万という「読んだことない本がじぶんの目の前にある」ということに幸せを感じると思う。気持ちだけでも「図書館に住んでる」って感覚で暮らせたらいいな。エアー図書館。

 

本はソフトウェアです。それもぬきんでてゆたかなソフトウェアです。そうであるにもかかわらず、そのゆたかなソフトウェアをどこで、どうやって活かすべきか、読書をめぐるハードウェアがあまり問われることがないというのは、不思議です。(38ページ「どんな椅子で本は読むべきか」より)

 本書では「椅子」のたいせつさがたくさん語られるけれど(表紙のイラストにもなっているジョージ・ナカシマ氏の椅子はほんとうに素敵)椅子はもちろんのこと、ブックカバーやしおりの素材や手ざわり、本をならべる本棚の素材やサイズ、また、もしも本に線を引きながら読む人なら、どういったペンで書きこみをするか、そんなところにもすこしこだわってみると、読書の世界が広がるんじゃないだろうか。暖かくなったら川の土手や公園のベンチで読んだり(海外だと休日の昼下がりにベンチで読書するって、ふつうの光景らしいですね……いいなあ)

先日、こんなことをツイッターでつぶやきましたが、

このお店の窓際の席、日当たりも良くて、さらに椅子の座りごこちもとてもいいんです(どこにでもあるチェーン店なんですけどね)読書がはかどるし、ついつい昼寝してしまうこともある。

 

二〇世紀の初めのころの大阪に、府立図書館がつくられます。そのときの図書館では、閲覧室の椅子は予約制で、行ってチケットをもらうと椅子を自分専用にでき、そこへ行って自分の椅子で、本を読む人たちが少なからずいたと言われます。(59ページ「椅子で人生が変わってくる」より)

「椅子にこだわり抜いた読書カフェ」というのがあったらいいなあ(それこそ店内にはジョージ・ナカシマ氏の椅子が用意されている)お客はその椅子で何時間も読んじゃうだろうから、1時間ごとに料金が発生するシステムでもぜんぜんいい。考えてみれば、カラオケボックスだって、スポッチャだって、温泉宿のピンポンだって時間ごとに有料なわけだし…。最高の椅子に座って本を読むという行為に、人はお金をださないだろうか。

 

1章の「本はもう一人の友人」、2章の「読書のための椅子」は、本好きの方ならウンウンとうなずきながら読めると思う。後半は、なかなか概念的というか、一読しただけでは腑に落ちなかった。本棚に置いておいて、また読みたい。

 

人間死んだら残るのは骨だけど大事なのはやっぱり筋肉【ゆがみを直すヨガ・ストレッチ 今井まお著】

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著者はヨガ教師だけでなくパーソナルトレーナーオステオパシー療法師としても活動する今井まおさんという方です。

ヨガと骨格矯正をからめた本はたくさんあるけれど、

 

・身体がゆがむ原因。

・ゆがむと身体にどんな影響があるのか?

・ゆがみを治すためにできること。

 

これらについて、図解もふくめ分かりやすく書かれています。

 

たとえば、骨盤がゆがむとどうなるか。

足組みの癖や立ち姿勢のバランスの悪さ、加齢やケガで骨盤がゆがむ。

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胃、肝臓、小腸、大腸、膀胱(女性の場合は子宮も)が、重力によって骨盤に向けて落ちてくる。

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骨盤の内側で内臓たちが押し合いへし合い、ギュウギュウ詰めになる。

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内臓の血流が悪くなり腹部が冷え始める。

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冷えた腹部を温めなきゃ!とお腹まわりに脂肪が集まり、下腹ぽっこり肥満に。

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さらに足の付け根の動脈と静脈が内臓と脂肪で圧迫される。

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足に静脈血が溜まる。

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リンパ管の老廃物や水分を送り出せなくなり足がむくむ。

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むくんだ足に溜まった血と体液が冷やされ、身体中をゆっくりまわる。

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全身の体温が低下。

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エネルギーの代謝が低下。

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太りやすい体質&酵素を溜め込むため老化まで促進する。

 

まさに負のスパイラル。「歪みはダメなんだろなー」となんとなく思っていたけれど具体的にどうしてダメなのか今更ながら理解できた。

 

 

筋力が足りないと悪い姿勢=楽な姿勢になってくる。

人の体にはホメオスタシス(整体恒常性)という、体内の状態を常に一定に保とうとする仕組みがあります。(26ページ「自分の力でゆがみを治すことが大切な理由」より)

バランスの悪い状態を一定時間繰り返していると、それが体のクセになっていきます。悪い筋バランスがしだいに固定されていき、いつの間にか体は「それが自分の基本なんだ」と思い込んでしまうことになるのです。(60ページ「ゆがみの原因②行動のクセなどの生活習慣」より)

「自分にとって慣れきってしまったデフォルト状態」を少しずつ良い方向にヴァージョンアップしていけるのがヨガの良いところだと僕は思ってるので(これは体だけでなく心の部分も)週1でレッスンに行くよりも、たった5分だけでもいいから毎日やったほうがいい。 著者によると人のホメオスタシス(恒常性)はだいたい2週間で書き換えられるとのこと。

 

「骨がゆがんでいる」とイメージされる方が多いのですが、じつは、ゆがみを作っているのは筋肉や組織なのです。(18ページ「からだがゆがむってどういうこと?」より)

「人間死んだら灰になって残るのは骨のみ」なんて良く言うし、そうなんだろうなーと、何の疑いもなくこう思ってた。やっぱり大事なのは筋肉。

 筋肉は体のなかで熱を作れる唯一の器官でもあり、筋肉量が増えれば冷えや代謝の問題も解消していきます。(95ページ「アイソメトリック【静的な筋トレ】で鍛え、目覚めさせる」より)

 これもあらためて考えたことなかったなー。本で読んで再認識することってとても多い。人体というのは熱を放出、消費しながら動くのが基本なわけだから筋肉はすごい。

こりや緊張、こわばりの大きな原因は、このインナーマッスルの衰えによる、アウターマッスルの過度の緊張にあると思われます。(93ページ「筋力不足による不調はストレッチだけでは治らない」より)

バランスボールって、「球体」という極めて重心がアウター(外側)に偏った物体に乗ることで、乗った人間が嫌でもインナー (内側)を意識&駆使するように成り立ってるんだなあ。考えた人すごい。

 

 こういった類の本としてはめずらしく、文庫本サイズです。カバンに入れておいて、巻末に載っているストレッチを空き時間にサクッと行えます。

椅子に座りながらのストレッチも豊富に紹介されているので僕は仕事の休憩中たまにやってる(ちなみに休憩室は閉ざされたせまーい部屋で、ほぼ誰も来ない。とても捗る)

 

「する」ことばかりに追われる僕たちにオススメの本「しない生活 煩悩を静める108のお稽古」小池龍之介著

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東大を卒業して住職になり、鎌倉の月読寺と山口県の正現寺を行ったり来たりしながら、瞑想指導や坐禅指導、著書も多数。異色のお坊さん小池龍之介さんの著書。

僕たちはついつい毎日の生活の中で「〜する」ことばかりに追われて、それがいつのまにか「〜しなきゃ」に変わり、がんじがらめになってる。

僕なんて、休日だというのに、iPhoneのメモ帳にわざわざ「やることリスト」作ったりしてさ。

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「地味な休日だなー」という以前に、ヨガとかブログとか好きでやってることまでタスク化してるからどうしようもないですね。「今日のうちに全部終わらせなきゃ」と誰に頼まれたわけでもないミッションに追われてせかせかしてしまうわけです。そういうミッションクリアは仕事でやりゃあいいのにね。「俺、休日を有意義に過ごしてるぞー」という実感が欲しいんだろうな。我ながらくだらぬ。

 

本書では、あえて「しない」という生活を提唱してくれます。

①つながりすぎない

②イライラしない

③言い訳しない

④せかさない

⑤比べない

大きく5章に分かれてる。

 

複数の思考で心が混乱する理由は、私たちが「どの選択肢がより得か」を、計算したがる欲望にあります。けれども問題なのは、こうして考えをめぐりさせるとき、私たちは精神(と時間)を消耗して疲れてしまうということです。(22ページ【どちらが得かを迷うのは心にとっての損】より)

 接客しているとたまに「買い物するときは値札見ないようにしてるんです」というお客さんがいる。「ブルジョワか!」とツッコミたくなるんだけど、つまりは「すごく欲しい」と思った気持ちに対して正直なんだと思う。僕にはできないな〜と思いつつも少し羨ましい。金額を気にして、似たようなグレードを下げたものを買ったとしても、最初に感じた「すごく欲しい」という気持ちはないがしろにされたままになってしまう。

 

「ありえない!」という言葉に、ほんのり傲慢な響きが含まれているように思われる理由も見えてきます。なにせそれは、「起こるべきことと、起こるべきでないことは、全部、このワタクシの常識に沿って、決まるのである。他人と世界は、それに従いなさい」というニュアンスをはらむのですから。(80ページ【「ありえない」という否定語は傲慢で不寛容】より)

僕は関西出身なので中高生くらいの頃、めちゃくちゃ面白いことが起きたとき友達と「ありえへん〜!!」としょっちゅう言っていた。「ありえへんほどオモロイ」という意味で。けれど大人になった今、職場やプライベートのネガティブな場面で頻繁に「ありえねえよ」「ありえないんだけど」という言葉を聞くようになった気がする。仕事で凡ミスしたときに「そんな簡単なミスするとか、マジありえないわ」などと言われたらほんとうに何も言えなくなるよねー。「ありえない」という言葉の攻撃力、相手への制圧力、マジ半端ない。なるべく使わないようにしよう。使うときは腹抱えて笑うときが良い。 

 

脳は細かい変化(=無常)の世界を勝手に単純(=常)化して、現実を「自分にとって」の主観的な像に変えてしまうので、非常に非科学的な見方をする傾向にある。ひるがえって仏教は、脳に省略をやめさせ、ありのままに細かく分けて見る点において、科学的なものなのです。(150ページ「座禅瞑想で、鈍感になった脳をリセットする」より)

「これはこうだ!」と決めて短距離ダッシュする瞬間も必要なんだろうけどね。ただし、それが追い込まれて無理やりひねくり出した答えだったりすることもある。弱ってる時って「白か黒か」で考えがちだから。「仕事続けるのか?辞めるのか?」「別れるのか?付き合い続けるのか?」しまいにゃ「生きるのか?死ぬのか?」とか言い出してしまう。逆に頭が冴えている時というのは、何十通りもの選択肢を頭に思い浮かべられて、「どれが良いかな〜」と軽やかに思考できる。……と言いながら自分が今までそんな思考状態になれたことが果たしてあったかな、などと思い返すとこれまた皆無で凹むのだけど。

 

ひたすら修行に精進していた頃は、「静かなお気に入りカフェ」などというこざかしいものなど必要なく、どんな場所でも環境でも「ここが、今、心が静かになる場所」であり、仕事がはかどっていたことが思い起こされます。(196ページ【どんな環境でも今ここを「心が静かな場所」にする】より)

例えば「明日から三連休だー!」とウキウキで帰る電車の中なら、どれだけ帰宅ラッシュの満員電車でもみくちゃにされても静かな精神状態を保てる。これはただ単に余裕があるから。休み明け、会社に向かう通勤ラッシュはまあ無理ですね。ATフィールド全開。そもそも「落ち着ける場所はこことあそこで、落ち着ける時間はいついつで……」なんて決めつけちゃうのもマズイのかも。B’zの「さまよえる蒼い弾丸」の歌詞にある「無菌状態に慣れすぎみんなあちこち弱ってる」のように。

 

108の稽古が1ページに一個ずつなのでサクッと読めます。自分に必要なページは端っこ折っといて、たまに読み返すと良いかも。

よし、今度の休日は「やることリスト」でなく「しないことリスト」を 作ろう。