わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

ついにコスパ最強の白シャツにたどり着いた話。

かねてから「良い白シャツが欲しいな〜」と思ってきました。無印やユニクロなど、ファストファッションのシャツも何度か試したのですがどうもしっくりこない。いろいろ探した結果、先日ついに「これが探し求めていた白シャツだ」というものにたどり着いたという話です。

 

そもそも良い白シャツとは。

たとえばマーガレットハウエルブルックスブラザーズ。またはAPCの白シャツなどはまちがいなく「良い白シャツ」の条件を満たしている。

形がきれいだし、第1ボタンを外したときの襟の立ち方、開き方がうつくしい。生地も柔らかく肌触りも良い。アイロンをかければパリッとフォーマルな雰囲気に、あえてシワがついたままでもリラックス感が出てさまになる。袖をかるく捲れば、夏場にわざわざ半袖を引っ張りださなくても涼しげに着れる。

1年中、毎日だって着ていたくなる。きっとそんな白シャツなのだと思う(店頭で何度か試着したことがあるけど本当に素晴らしかったです)

いつか買いたいなあ。そんなシャツを3、4枚くらいストックして、レギュラーで日々ローテーションできたら素敵だなあ、などと憧れる気持ちはある。あくまで憧れ。

そう、価格が問題。

一着20,000円オーバーである。 

 

 

シャツ1枚に2万円を出せるのか問題。

2万円。これは僕の今使ってる無印のリュックサックの倍以上高く、履いてるドクターマーチンの革靴とほぼ同じくらいの値段である(ついでに言うなら一ヶ月のお昼ご飯代よりも高い)毎日普段着として着て、ひんぱんに洗濯するシャツが、カバンや靴より高価というのはどうにも不自然な気がする。例えるなら高級ワインを飲みながらうまい棒をツマミにするような‥‥(うまい棒に失礼ですね)

とにかく、どんな物事にも適当なバランスというものがあると思うし、それはふだん身につける洋服においても例外ではない。だから、もしも仮に「僕の年収があと300万円高くて、普段使いに7万や8万円するカバンや靴を所有している」のなら話は違ってくる。

そういう観点から考えると、今の僕に適当なシャツは、高くとも一着4000〜5000円ほどのもの、という結論になる。

 

 

ネットで見つけた「マクバトロス」というメーカー。

そんなこんなで見つけたのが「マクバトロス」というメーカー。 上野アメ横にあるアメカジ屋のオリジナルブランド。値段はネットショップで4000〜5000円。レビューも悪くなかったし、なにより日本製というところに惹かれてさっそく注文してしまった。(ちなみにメール便を指定すれば、送料は無料でした)

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↑ これは一度着用後、洗濯してからアイロン無しの状態だけど、シワがあってもあまりみすぼらしく見えない。逆に良い感じのユルさが出る。それはたぶん生地にしっかり厚みがあるから。透け感もほとんどない太番手のオックスフォード。

 

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↑この価格のシャツでボタンが貝ボタンなのがとてもうれしい(MADE IN JAPANのタグがちょっとドヤってるけれど)これで5,000円はかなり良いのではないだろうか。4着買って先述した2万円である。きっとこれくらいが僕にはちょうどいいのだろう。

 今回は白を購入したけれど、カラーバリエーションが豊富でブルーやネイビーやグレーもある。白ばかりを数着ストックして「私服の制服化」をしてもいいし、気分で色を変えてもいいと思う。

  

 

自分にとっての「良い白シャツ」は人それぞれ。 

 「白シャツは特別なシーンだけでしか使わない晴れ着」だとする人もいるだろうし、そもそも「消耗品としてできる限り安価なもので済ませたい」と考える人もいるだろう。白いシャツにたいする考え方は人それぞれなんだと思う。

とりあえず僕の場合は、2万円オーバーのシャツが持つような長所をある程度そなえつつ、多少ナポリタンやカレーうどんの汁が飛んだり襟や袖が汚れても神経質にならない価格のものが欲しかった。それにドンピシャだったのがこのマクバトロスのシャツだったのである。

太番手のヘビーオックスフォードでちょっと無骨な雰囲気があるので「パリッとキレイめ」のシャツとは少しちがうかもしれない。けれど休日の外出はもちろん、家でリラックスして、自分が素でいられるような時間にゆる〜く着れるシャツです。おすすめ。

 

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3年ぶりにヨガレッスンに行った。

ふだんはコソコソと一人自宅練習ばかりしているのだけど、タイミングよく誘ってくれた人がいて行ってきました。

 

3年ぶりはとても緊張した。

「最後までスタミナもつだろうか?」「自己流のクセとかダメ出しされるだろうな‥‥」などなど不安がいっぱいだった。受付まで時間があったから近くのファーストフード店で待っていたんだけど、そのあいだもそわそわして「今のうちにほぐしておかなくては」と、座りながら首をまわしたり背骨のばしたりと落ちつきがなかった(ほとんどのクラスは、フロアに入ってからスタートまで時間があるのでウォームアップできるのだけど、久しぶりすぎてそんなことも忘れていた)

 

たとえ独学でも、日々の練習は嘘つかなかった。

そんふうにビビリながら参加したわけだけど、自分が思っていた以上に動けた。今年に入ってからの2ヶ月間は以前までの「あくまでストレッチ感覚、血行も良くなって痩せるし風邪もひかないしヨガっていいよね〜」というゆるめのスタンスを一度棚上げし(もちろん、そんなスタンスでヨガやるのも楽しい)「とにかく1日ごとに1センチでも、1ミリでもいいから柔らかく!人体の恒常性=ホメオスタシスは2週間で書き換えられるから!」‥‥という熱血モードで自宅練習してきた。とくに太陽礼拝は自分のペースに甘んじてしまわないように、YouTubeで動画を流しながらインストラクターの呼吸とポーズについていけるまで繰り返したのが功を奏したと思う。

 

「自宅練習はほとんどやらないけどレッスンには頻繁に行く」よりも「毎日地道に自宅練習。たまにはレッスンに行く」というスタイル。

 家で一人、こつこつとやってきたことが、プロのインストラクターが行うレッスンで通用したのはやっぱりうれしかった(今回のインストラクターさんは人気の方で参加人数も多かったから、一人一人細かくチェックするまで至らなかっただけかもしれないけれど)それでも自分の中ではたしかな手ごたえがあった。「やっぱりヨガってすごく個人的な行為なんだな」「一人で考えてやってきた結果を自分自身で認めてあげられたときって最高だな」などと思ったりした。レッスンはあくまで「新しいことに気づく場」であり、そんな「気づき」を得るために、自宅での地道な練習が必要なんだなと。

 

 ヨガ仲間を作る重要性。

今回はたまたま誘ってくれた人(男性)がいたから思い切って行けたわけで本当にありがたかった。自分一人だとメンズ限定クラスか、もしくは男性インストラクターのクラスじゃないと参加する勇気はまだないかもしれない。いっしょに参加できるヨガ仲間に出会う意味でも、たまにでもいいから(一年に一回でも半年に一回でも)ヨガクラスに足を運んでみようと思えた経験だった。

とはいえ、友だちがいなくて、家が大好きなのは変わりないので、「家で一人、ヨガ本やYouTube見ながら亀のごとく鈍足でもちょっとずつレベルアップしていく」というスタイルは今後も続けたいと思う(われながら根暗だけども)

ヨガクラスでの学びは「着火剤」みたいなもので、その火を燃やし続けていくための「燃料」は日々の個人練習なんだなーと。

 

↓最近改めて読んでるヨガ本。ポージング中の骨と肉の動きが丸わかり。

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春コートに求めるのは、きっと防寒性などではなく。

今日、春コートを買った。

いわゆるスプリングコートである。

春コートを一着持つことは、オシャレレベルが「テレレレッテッテッテー」というあの馴染みの効果音とともにアップすることのような気がする(少なくとも僕にとっては)

僕は昔から春コートというものが欲しかった。「渇望」なんていうと誇張しすぎだけど、「憧れ」と言っても、大げさにはならない程度に欲しかった。

しかし誰もが知っているとおり、冬の寒さと春の暖かさが卓球のダブルスの選手たちのように入れ替わり立ちかわりするこの季節は、長くとも一ヶ月半くらいしか続かない。あくまで限定された季節なのだ。だから僕は毎年春を迎えるたびに「春コート欲しいな…‥」とぼんやり願いながらも、冬用の厚いコートやマフラーやユニクロのウルトラライトダウンを総動員し、調整し、生来の横着さを最大限発揮して、この揺らいだ季節を過ごしていた(その横着さは、朝寒く、コートを着て家を出て、帰りの電車では暑くてコートを脱ぎ脇に抱えるという小さなストレスを毎日僕にもたらした)それでも、やはり僕は春コートを買わないまま、いつのまにか季節は梅雨に突入し、初夏を迎える。毎年毎年、そんなことを繰り返している。

でも今年僕は、春コートを買ったのだ。

ルミネの中のジャーナルスタンダードで買った。コートと呼ぶにはいささか生地がテロンテロンの薄手で、初春特有の肌寒さをしのげる機能を満たしているとは言い切れないけれど、シルエットと色がとても気に入って購入した。持っている服との相性もばっちりだった。

僕は最初からわかっていたのだ。

そもそも、春コートに防寒性は求めていないのだということを。

真に求めているのは、この限定された季節のためだけの専用の一着を、自分が所有しているという事実。そして三寒四温の日々を、「お気に入りの春コートのオンオフで上手にスイッチしてるんだよ」と誰かにアピールできることなのだ。

これは何とも恥ずかしいことである。

人の自己満足とは、自分の評価だけでは飽き足らず(自己満足なのだから自分が納得すればそれで良いもののはずなのに)他人からの視線や評価がなければ真に満たされないものなのだろうか。そんなことを考えると少し暗澹たる気持ちになった。それに、普段ミニマリズムを実践すると言いながらも、また一着服が増えている。矛盾である。

けれど、最近強く思うのは、身の回りをシンプルにしていくにつれ、自分の本来の欲求が、じんわりと表に現れてくるようになった、ということだ(例えそれが一見して醜いものであったとしても)そうやって浮かんできた欲求にたいして、波に乗るのか、ズバッと切り捨てるのか、しばらく傍観するのか、そのたびそのたびに地道に判断を下していこうと思う。

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防寒性はともかく、水にはめっぽう強いようなので、春の夜の霧雨の中、フードかぶって歩いてみたい。

風呂での読書について思うこと。

僕は風呂でよく本を読む。昔からだ。風呂で読書するメリットはいろいろある。個室に1人だから集中できるし、半身浴でゆっくりつかりながら読めば汗もかいて代謝もアップ。身体にもいい。

しかし、やりすぎは禁物だ。

二〇代の半ばごろ、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にはまったときは、あの3巻にわたる長い小説を毎夜毎夜の風呂タイムで飽きもせずに読んでいた。たぶん1〜3巻を4周くらい読んだ。おかけで第1巻などはもうボロボロである。

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浴室内の湿度、水しぶき、手指からの汗で、本の項は濡れて曲がり、そして乾き、パリパリになる。古本としての価値もとうぜん失われる。元どおりにもどすことはできない。「不可逆」である。しつこいけれど、ドラマ「カルテット」的にいうところの「からあげにレモンをかける」と同じ。世の中は不可逆なものであふれている。

「付箋を貼りながら本を読むこと」の記事でも書いたように、夢中になった本、 お気に入りの本だからこそ、線を引いたり、水びたしでパリパリになどせず、きれいなままにしておきたいと思う。だから風呂で本を読むときは、換気扇をつねに回して湯気を逃がし、濡れた手ではけっしてページをめくらない。完全防水ブックカバーなるものがあるらしく、ちょっと気になっているくらいである(どれだけ濡れても気にならない『風呂読書用の本』を何冊か用意しておくというのも一つの手かもしれない)

けれど、ふと思う。

あの頃たしかにあった「本が濡れてひん曲がってバリバリになることなど気にもせず、ただひたすらに本の内容に没頭していた自分」は、どこか遠くに去ってしまったのだな、と。

二〇代も後半にさしかかったころ、僕は若くしてかかげた目標をあきらめ、夢から遠ざかり、アルバイトをかけもちしながら将来へのぼんやりした不安をかかえて淡々と日々を暮らしていた。そんな小さな絶望から目をそむけるために、あるいは救いを求めるために、読書にふけっていたのだと思う(そのとき手にとったのが、たまたま村上春樹の小説だったのか、もしくは村上春樹の小説だったから、そこまで読書に没頭したのか、今になってはわからないけれど)

とにかく、そのころの僕は風呂で本を読むというのにブックカバーすらかけていなかったし、本を浴槽のふちに置いて放置したまま髪を洗ったり(ほんとうにひどい)、睡眠不足のまま寝落ちして本を風呂ポチャしたことも何度もあった。なんとも稚拙ではずかしい。ただ、そんな横着で、大雑把で、青くさい読書体験を、今になって少しいとおしい思えるような気がするのだ。

‥‥‥自分語りみたいになってしまったけれど、風呂読書はまだまだやめられそうにない。休日の前の夜に、お気に入りの本とあつあつのお茶、あるいはキンキンに冷えたジュースなどをお供に(なんならお気に入りの入浴剤も入れて)じっとり汗をかきながら本の世界に浸るなんて、やっぱり最高だと思うから。

【本の感想】いつもの毎日 松浦弥太郎著

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今でこそ、お気に入りのモノ紹介がSNSやブログでたくさん発信されている(ぼくも例にたがわず)けれど、松浦弥太郎さんはそういうものの元祖と言ってもいいかもしれない。

ともすれば、モノ自慢におちいりがちなモノ紹介だけど、この方の文章はふしぎと引きこまれる。なんなら「さて、自分もブルックスブラザーズの白シャツを買ってみようか‥‥。」などと思わせられてしまう。

 

まず、「シャツ五枚、ニット三枚、パンツ五本、ソックス一〇足」というようにワードローブのキャパシティを決めます。次に、「シャツの袖口がすれてきたら、同じものを一枚買う」という具合に、どんなときに何を買うのか、買い物計画をあらかじめ決めます。(69ページ「値段とファストファッション」より)

 こういう基準はほんとたいせつだと思う。もっと少なくてもいいんじゃない?とついつい思ってしまうけれど、ある程度の数があったほうがローテーションできて洋服も長持ちする。ここ数年、断捨離とミニマリズムの名のもとに減らすことばかりやってきたけれど、良い状態で長く着ることを考えればもう少しストックを増やしていいのかも‥‥などと思ってる。たいせつなのは、自分が心地よく守れるくらいのルールをもうけること。

 

「二〇万円のテーブルなんて考えられない」という人が、一〇万円するブランドバッグを平気で持っていたりするのは、どうにもバランスを欠いています。バッグを持って出かけるのは週に数回でも、テーブルは毎日、接するものです。(92ページ「テーブルと椅子」より)

「 使用頻度の高いモノこそこだわりの一品で」この考え方もやはり大切。一日中本を読む人なら一〇万円の椅子だって高くないんだな、きっと。そしてミニマリストの場合、 

 

所有物が少ない→限られた持ちものすべてが毎日のレギュラーになる→毎日使うものだからとすべての所有物をこだわりの一品でそろえ始める‥‥

 

‥‥こういう流れになることがあり、僕もこれまではそうあるべきだと思っていて実践していたんだけど、ふだんの生活において、すべての持ち物がこだわりの一品でバシッと決まりすぎているのも、ちょっと息ぐるしいかもなと最近感じるようになった(これはけっこう大きな気持ちの変化だ)

同じ毎日がずっと続くように思えても、人生には小さな変化やメリハリ、彩りがある。仕事での勝負どころや大事な人に会うハレの日もあれば、コンビニに唐揚げ買いに行って家でダラダラ昼寝したら日が暮れる日もある。そんな日々のグラデーションによって使い分けができるくらいのモノは所有していいかも。

 

これしか持たない、使わないという意味ではなくて、その時に自分が好きなものこそ自分にとっての定番になるんだということ。でも、時間が経って変わることもあるし、僕の中にも矛盾はあります。(184ページ 菊池亜希子さんとの対談のなかで)

松浦さんのような、モノへのこだわりを極めたような人でも矛盾はあるんだなあと。「これがわたしの定番」とひとつ決めてどんとかまえたい気持ち、それはときとして、あふれかえるモノと情報から耳をふさいで安心するための常套句になってしまうこともある。「このブランドこそ自分にぴったり」と一つのブランドで買いそろえれば気分も一新、とてもすっきりする。僕も二〇代のころブーツが大好きで、レッドウイングやチペワを2、3足そろえて「よーし、一生ブーツでいこう」なんて息巻いていた。でもそれは一時期の思いこみだった(気づけばシンプルな革靴しかはかなくなっている)自分がこしらえた「ブーツが最高というイデオロギー」に自らが取り憑かれていたのだと思う。

たいせつなのは、

「ぼくは〇〇が好きだ!(今はね)」

という、この(今はね)というカッコ内の柔軟な気持ちのあり方なのかな。ドライにきこえるかもしれないけれど、変化するからこそ、そのときそのときに好きなものにまっすぐ向かっていく。そのうえで、そんな「お熱になっている自分」をすこしでも客観的に見ることができれば、「変化していく過程」もふくめて楽しめるんじゃないだろうか。松浦さんの文章の魅力は、「自己矛盾」を肯定しているところにあるのかもしれない。

 

本書では他にも、上質の白シャツは「アイロンかけ→フォーマルな場」「あえてのちょっと皺あり→普段着」「腕まくり→夏に半そでの代わり」と多様に使い分けができる話や、「何年も同じコートをきれいにたいせつに着ている人」を見ると嬉しくなる、といったすてきな話がたくさんでした。

 

付箋を貼りながら本を読むこと。

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近ごろは付箋を貼りながら本を読んでいる。

それまでは「ペンで線を引く」、もしくは「ページの端を折る」ことで気になったくだりにチェックをいれていたけれど、いざ付箋を使いはじめるととても快適。

 

本がきれいなまま。

ペンで線を引いたり、ページの端を折るのはたしかにわかりやすいし素早くできて効率もいい。けれど消すことはできない。不可逆。ドラマ「カルテット」的に言えば「からあげにレモンをかける」こととおなじ。元どおりには戻せない。

ペンでの書きこみや端折りは、いつか古本として買い取ってもらうときにも値が下がるし、「この本おすすめだから読んで」とだれかに貸すときも印はついてないほうがよい(本を読んでいて、前の人の「気になったくだり」がこれ見よがしに目に入ってくるとやっぱり気になる)

 

読みごたえがあった本かどうか、あとから一目でわかる。

読んでいてグイグイ引きこまれ、ハッとさせられる箇所が多かった本は貼る付箋の数もふえる。1ページごと、1段落ごとに気になるくだりが見つかり、付箋だらけになる。逆に、いまいち自分にささらなかった本は付箋の数が少なくなる。本棚にならべれば一目瞭然。「これは読みごたえあったなあ」という本をすぐ見つけて再読できる。「あんまりピンとこなかったなあ」という本も、「今ならわかるかも」と再読できるし、あるいはあきらめて売りに出すこともできる。

 

色によって付箋を使い分ければより本の理解度が上がる。

これは齋藤孝さんの「3色ボールペンを使った読書術」からの完全受け売りなのだけど、

「本のテーマといえるような重要な一文」→の付箋

「テーマとまでいかずとも要約にはかかせない大切な一文」→

「テーマとは少しはなれるが自分が印象に残った一文」→

そんなふうに分けてみることで、以前読んだ本でも「全体のテーマや要約を追いたいときは赤と青の付箋」を引いたり、緑の付箋がやたらと多い本は「自分の価値観に近く、さらに発見も多い本だったんだな」とふりかえりやすくなる。

 

どんな付箋が良いか。

ポイントの1つはやっぱり「細さ」だと思う。理想的な細さは文章の一行ごとに印をつけられる4〜6㎜幅くらいのものが良いと思う。

先日買ったのはこの「ココフセン」という商品。

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これは付箋が色ごとに小さなポケットにストックされていて、そのポケットを本の脇や、手帳にはりつけることができる。もちろんこのポケットは剥がすのもかんたん。跡ものこらない。箱ティッシュの要領で、付箋が1枚ずつ取りだせてもたつかないので、電車で立ちながらの読書でも、ピッと1枚だけを片手の指でつかめる。

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 松浦弥太郎さんの紹介文のまわりにペタペタと貼っちゃった。なんだかすいません。

100円均一でもぜんぜんいいんだけどね。付箋も進化してます。

【本の感想】ブランドのデザイン 川島蓉子著

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企業のロゴマークや商品のパッケージデザインの由来を知るのはけっこう好きで、気になって読んで見ました。読んでみると、企業におけるブランディングという大きな話にかぎらず、自分がこうやって書いているブログや、ツイッターやインスタグラムで個人が発信するときのコツみたいなものがたくさん書かれていました。べつにプロブロガーだとかアフィリエイターだとか、収入を目的にやっている人に限らず、趣味で自分の情報を発信している人も、「もう少し工夫してみようかな?」といろいろ発見がある一冊です。

 

 「ウーロン茶」の広告で、「ウーロン茶はおいしい」とか「ウーロン茶は身体に良い」といったような、商品の優位性を伝えるものは決して多くない。それよりも、「ウーロン茶」の故郷である中国ー近くて遠い国における人の有り様を描いている広告がほとんどであり、それによって、「ウーロン茶」を取り巻く世界観を伝えている。(71ページ「ブランドはお客様の頭の中にある連想を広げること」より) 

 商品そのものではなくて、それを買うことで自分の生活がどんなふうに彩られるか。どんな楽しい気持ちになるか。そういった目に見えない「気分」とか「雰囲気」というものは思った以上に大切。人の心が動く=「欲しい」と思うときってそういう瞬間。細かいスペックを気にしたほうが良い場面もあるけれど、そこはある程度慣れちゃうし、スペックを気にして買い物してばかりいるとこれまた疲れる。他にも、「キューピーマヨネーズ」が、マヨネーズをいっさい映さず、野菜だけを登場させた広告の例も書かれています。マヨネーズという高カロリーの食べものをヘルシーにプロモーションするってやっぱりすごい。

 

奇抜なファッションに身を包んだタレントが、ありえないシチュエーションを演じる。現実味がまったくない景観の中に、端正この上ない佇まいで商品が置かれている。可愛らしさや甘い雰囲気を前面に出して、妙に女性に擦り寄ってくるーそんな広告を目にすることが多いのだ。(111ページ「宣伝は資本である」より) 

「若い人に車が売れない」とよく言うけれど、車のテレビCMを見ていると、「はなから若い人には売る気なんてあまりないんだろうな〜」という気持ちになってしまう。CMの中では、40〜50代のダンディな男性が夜の都心のハイウェイを高級車で疾走し、あるいは、子どもが2〜3人いるファミリーが大きなワゴンでキャンプに出かけたりする。あまりに現実とかけ離れている(あくまで僕の現実とだけど)「共働きの子なし夫婦が、何ヶ月かぶりに同じになった休みの晴れた日に、目的の場所もなくフラッと小さな軽に乗って出かける」そんなCMだったら心動いてしまうかもしれない。「これはいったいどこの世界の話なんだ?」ではなく、「これは僕の世界にも起こりうるかもしれない」そう思わせられるとき人は「欲しい」「買いたい」と思うんだろうな。そう考えると、ユニクロのテレビCMや無印の広告は「ほぼ全てに人に起こりうるであろう物語」を発信してるんだよな。

 

情報が豊かになったと言われているが、実際は知識のスローイングとキャッチングを繰り返すだけで終わっている。そうではなくて、情報の受け手を、さらに活発な思考へと導く、つまり脳を連動させることが情報の本来の力であるはず。したがって「知らせるのではなく、いかに知らないかを分からせる」というコミュニケーションの形(254ページ「情報を未知化する」より

 前回紹介した長田弘さんの「読書からはじまる」でも印象に残っている「読んだ本、読むべき本よりも、”読まない本”が存在することの大切さ」に通じるんじゃないかなあ。内田樹さん的に言うと「知性が活性化する話」。

なんというか、「ほんとうに良い情報」って、すぐに頭では理解できなくて、「実際に身体を動かして確かめなきゃわからない」ものなんじゃないかな。「買って、確かめたい!」という気持ちこそが真の購買欲。カルチャーやムーヴメントだって、人間の身体があちこちにリアルに動くからこそ起こるわけで。

 

”シンプル”ということについて原氏は、「シンプルの品質は思考の総量が決める。ただ単純なのではない。同じシンプルでも、考え抜かれたシンプルかどうかが重要」という。幾何学的に簡素であるというだけではなく、それが「多様なイメージを一身に受けとめられる容量の大きな器として機能するかどうか」。(256ページ「品質は思考の総量が決める」より)

「考え抜かれたシンプルかどうかが重要」……痛い言葉だなあ。「僕がやっているのはしょせん、貧困ゆえのミニマリズムなのか」この問いに果たして答えは出るのでしょうか。

 

 読んだのは文庫版ですが、文庫はどうやら在庫薄のようです。実際の広告ポスターなどもたくさん引用されてるので単行本でも読みたいかも。