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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

この世の暴力性にたいして僕らはどう振る舞っていくべきか 「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」村上春樹著

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 なんとも大げさなタイトル。

 1部、2部と書いたのでやはり最後までやらねば!ということで完結篇の第三部です。

  「ねじまき鳥クロニクル」は(というか村上春樹の小説のほとんどは)「邪悪な存在」と「それによって人生を損なわれた人々」の姿を描いています。

 村上作品をあれこれと読むうち、僕は「邪悪な存在にたいして、僕らはどう振る舞っていけばよいのか?」という問い(大げさなことを言ってますが、日常的に感じる「なんだか変な人とか嫌な人が多いよなあ。なんとか左右されないようにゴキゲンに暮らすにはどうしたらいいんだろう」といった気分みたいなものです)を考えさせられるようになりました。

 「ねじまき鳥」以前の村上作品(「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」)では「距離を置いて、とにかくかかわらない」「ただただ、痛みが過ぎ去るのを待つ」という傍観的姿勢が濃くでていました。

 しかし、この「ねじまき鳥クロニクル」では、邪悪な暴力にたいして、「時には自らの暴力性を開放して食い止めなければならないときもある」という覚悟のようなものが強く描かれています。

私はそこで兄を殺し、そして罰せられなければなりません。不思議なことですが、私はもう兄のことは憎んではいません。今の私はただあの人の命を、この世界から消し去らなくてはならないと静かに感じているだけです。あの人自身のためにもそうしなくてはならないと思うのです。それは私が、私の命を意味あるものにするためにも、どうしてもやらなくてはならないことなのです。

「第3部 クミコの手紙より」

  なかなか過激な思想のように思えますが、この小説が書かれた1994年は、オウムの地下鉄テロやサカキバラ事件が起こる直前で、遂行される暴力にたいして、ただただ傍観するだけでは間に合わないのでは、という作家の「勘」みたいなものが作品にもあらわれているようにも思います。

 

 そもそも「邪悪な存在」とはなんでしょうか?いろいろ言い方はあるでしょうけれど、

「自己利益の追求のために他者を利用し、暴力的に損なわせる存在」だと僕は思います。

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 ブチャラティも言っています・・・「ジョジョ第5部より」

 自己利益は、お金、地位、名声の獲得・維持といった外面的なものから、己のプライドやコンプレックスの補填という内面的なものまでさまざまですが、

  それらを手に入れるためには、自らの能力を、努力や勉強で向上させるよりも、他人にちょっかいをだして、他人のパフォーマンスを低下させるほうが手っ取り早いということ(これはもう学校でも職場でもサークルでも社会の至る場所で見られる方法のように思います)を知っている人間がいます。彼らは自分が高みに登りつめるために他人を攻撃し、蹴落とし、利用します。さらに攻撃された人は、そのマイナス分を取り返すために、また別の人を攻撃します。そのようにして、邪悪な行為が蔓延することになります。

ある種の下品さは、ある種の淀みは、ある種の暗部は、それ自体の力で、それ自体のサイクルでどんどん増殖していく。そしてあるポイントを過ぎると、それを止めることは誰にもできなくなってしまう。たとえ当事者が止めたいと思ってもです。「第2部より」

 つまり、おぎゃあと生まれた瞬間からいきなり邪悪な人間がいるのではなく、邪悪な暴力を行使せざるを得ない「邪悪な状況」に身を置くことによって、個人の性格の善し悪しにかかわらず、だれでも「邪悪な存在」になってしまう可能性があるということです。

   そのような状況から逃れるためには、上でも書いたように「かかわらない」「距離を置く」という方法はとても有効な手段だと思います。要するに、「なんかヤバい」と感じた相手から、自分を「こいつを突いても、得はなさそうだ(むしろ損しそうだ)」「よくわからないやつだな。ほっとこ」と思わせるのが一番安全なのです。いきすぎたグローバル資本主義にたいするミニマリズムの姿勢も、これに近いと思います。

 ただし、「傍観」に偏りすぎると、ちょっとルサンチマン的というか、「僕らは善良で謙虚だから、あいつらみたいなことはしない。あれは別の世界の出来事なんだ」という思考に固まってしまい、根元の解決には至らないように感じます(僕はしょっちゅう、この考えに陥ります)

 この小説では「目には目を。歯には歯を」の論理をひとつの正解として提示していますが、決して暴力を正当化するのではなく、「暴力性は誰にでも生まれる可能性があり、他人事ではない」ということを伝えているように思います。

   本作は、話が複層に重なり過ぎたり、ミステリー要素が多いにもかかわらず謎は残されたままだったりと、不完全な点も多いです。それでも、夢中になって最後まで読んでしまう、言葉にできない「凄み」があります。多角的に読み出すと本当にキリがなくて、僕の感想など、この小説を構成する要素の何千分の1と言っても良いくらいです。まちがいなく、村上春樹さんの最高傑作だと僕は思っているので(「多崎つくる~」も好きですが)興味のある方は是非一度読んでみてください。最後まで読んでいただきありがとうございます。

第1部の感想⇩

「すでに起こってしまったこと」「これから起ころうとしていること」ねじまき鳥クロニクル 第一部 泥棒かささぎ編ー村上春樹著 - わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

 

第2部の感想⇩

自らの意志で捨てたもの 誰かの手によって失われたもの 「ねじまき鳥クロニクル 第二部 予言する鳥編」村上春樹著 - わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。