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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

お花見の場所取りと境界線の話。

お花見シーズンですね。

 
会社やサークルのお花見で幹事を任命され、「良い場所取らなきゃ」とソワソワしてる人もいるかもしれません。
 
僕も以前、お花見の前夜から野宿&場所取りを任命されたことがありますが(男二人で)春先の夜は寒いし正直きつかったです。でも、人もまばらな公園でブルーシートに寝転がり見上げた夜桜はなかなか良いものでした。
 
 
なんだかんだ場所取りを楽しんどいて、こんなこと言うのもどうかと思うのですが、
 
「桜の花」って、独占しあうものではなく、「春の暖かい陽射し」や「秋の心地よい夜風」と全く同じように、自然から人間へ、分け隔てなく、平等に与えられるものではないかなと思ったりもします。
 
「ここは私たちのスペースです」とレジャーシート広げて一日中その場所に居座るものでもないだろうなあと。
(木の真下でワイワイやるのは根っこを痛めて、桜の寿命も縮めるみたいだし…)
 
特に公園みたいな公共の場所こそ、出来る限り多くの人たちが無償でシェアし合えるほうが良いと思う。その点「桜並木」的なスポットは、人々が常に回遊するし、流動的、代わりばんこ的で良いなあ。
(最近は場所取りのマナーについて厳しくしている公園もあるようですけれど…)
 
 
 そもそも人間は、
「無限であるはずのコンテンツ」を「有限化」すること
にとても一生懸命です。
 
「ここからここまではオレのもの」というマーキング行為は、満員電車でかたくなに自分のスペースを死守するというような身近なことから、国境問題・領土問題まで、なにかと争いの種になっているような気がします。
 
ブランキージェットシティの「俺たちの国境は地平線さ」という歌詞にもあるように、本当はモノも大地も、すべてに境界など無く、「皆のものであると同時に、誰のものでもない」というニュアンスで良いのだと思います。シェアリングやレンタサービスがどんどんカテゴリを拡大しているように、これからはそういう時代なんだろうなと思います。
 
 
一方で、
「境界を無くさないほうが良いもの」もあります。
 「己の身体そのもの」です。
 
自分と他者との境界が曖昧になると、エヴァンゲリオンじゃないですけど何かと支障が出てくるように思います。(他者と自分を同一化しすぎて「あなたのことは自分のことのように、すべてわかってるんだから」みたいな話です)
 
これについてはまた次回・・・(こう言って、ほったらかしにしている主題がいくつあることか)
 
ではみなさま、良いお花見を。そろそろ咲きそうです。