わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

相手の愛情を確認してる暇があったら自分の可能性を確認しにいこう。 村上春樹、河合隼雄に会いに行く

f:id:coyote0801:20150330233937j:plain 

心理療法家の河合隼雄さんと村上春樹さんの対談本。

 

数年前に読んだ本だけどふと読み直したくなってブックオフで買った。
本ブログの読書感想はかなり再読率が高い。初読のリアルタイム感想というよりは、過去に読んだままほったらかしにして、ちゃんと消化できていなかった本を今一度咀嚼しなおしたいという願望があるのかもしれない。
 
 
以下本文より
結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるものではない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいかと、このごろになってふと思うようになったのです。

 

『お互いの欠けた部分を埋め合える仲』というようなフレーズをたまに聞くけれど、そんなドラマのような関係ってなかなか無いのかもなあ。

夫婦でも恋人でも、一定の他者と長期間、親密にコミュニケーションするということは「自分のどうしようもない欠点や邪悪さ、変えることのできない業を、自分で自覚していく(せざるを得ない)作業」なんじゃないかなと思う。

 

落部分というのはあって当然です。ただし人が真剣に何かを表現しようと思うとき、「欠落はあって当然で、これでいいんだ」とは思わないものです。それをなんとか埋めていこうとする。その行為に結果的な客観性がある場合には、それは芸術になることもある。

 

大事なのは「あなたといることで私の欠落が一体どういうものなのか、自分でも少しずつわかってきました。ちょっとずつ埋めるなりフタをするなりしていこうと思うから、温かく見守ってもらえますか?」

というメッセージが相手に伝わるかどうか、なんだと思う。

開きなおるのは一番危険で、「愛があればなんでも許される」というのはエライまちがい。「夫婦なんだから言いたいことをぶつけ合おう。それでも壊れない関係こそが本当の夫婦だ」みたいなのはちょっと怖い。

 以前、ロンブーか何かのバラエティ番組で、交際相手が街でナンパされてどう対応するかを、隠れて観察するみたいなのがあったけど、ああいうのは「愛の再確認」でもなんでもなくて、子どもが虫の足を一本ずつちぎりながら「いつ死ぬかな?」と遊ぶときの無邪気で無慈悲な思考と同じ。それを大の大人がやってるんだから品性下劣なこと極まりないし一抹の知性も感じられない。

愛とは、丁寧に、そして繊細に育てるものであって、試すものではない(良いこと言った)

 また、相手を頻繁に変えて、あっち行ったりこっち行ったりしてしまうのは、相手のことが嫌になったと言うよりは、相手との関係が深まるにつれて見えてくる自分のどうしようもない欠落部分を見たくないから、とも言えるかもしれない。

 

「気持ちよくあり続ける」と一口で言っても、そんなに簡単なことじゃないんですよね。ただごろんと芝生に寝ころんでいても、なかなかリンゴは勝手に落ちてこない。気持ちよくあり続けるためには、やはりそれなりの努力を払わなくてはならない。そのへんを簡単に済ませようと思うと、結局たとえばドラッグとか、売春とか、そっちの方に流れてしまいそうな気がします。

生きれば生きるほど、「新鮮でワクワクすること」は確実に減っていくものだ。だからこそ、年を重ねながら地道に種蒔きをしなくちゃならない。最初は広く浅くでもよいから、徐々に選別して目の届く範囲のいくつかの芽に絞っていって、じっくり育てられれば良いと思う。批判精神やニヒリズムに陥らずに、ゴキゲンなじいちゃんになりたいと思う。

 

一対一の会話で人を癒す一流の心理療法家と、物語による癒しをもたらす人気小説家の対談。

サクッと、一時間くらいで読めてしまうのでおすすめ。