わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

どうせ死ぬのになぜ生きるのか 名越康文著

どうせ死ぬのになぜ生きるのか (PHP新書)

 

精神科医名越康文さんの本。 

タイトル見たときはちょっとヘヴィな内容を想像したけれど、いざ読んでみると仏教の知識がほぼ皆無の僕でも(手塚治虫の『ブッダ』を読んだ程度)分かりやすく読み進むことができた。

 
以下本文より
現代は「世界はこんなふうにできている」という説明や論評はあふれているのに、「こう生きるといいよ」という実践の指針が乏しい時代だからです。例えば「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対しても、「科学的」に答えるのだとすれば、「個体としての人間は死んでも遺伝子は後世に伝わっていく」とか、「後の社会に残るような文化を伝えていくことが社会的生命としての人間の役割だ」という説明は可能です。そういった説明には、それなりに説得力もあります。しかし、少なくとも「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いを自分の問題として考えている人には、その答えは十分とは言えないのではないでしょうか。
 
「世の中がこうだから、こう生きるしかない」

「あの人はああだから、こう接していくしかない」
 
そういう思考停止した断定的な思考はそこら中に散らばってる。
ただ、誰もが望んでそんな思考になってしまってるわけではない(と思いたい)
「ヤバイな」と思いながらも「めんどくさいから」と放っておいた塵のように小さな不安や怒りが、ちょっとずつ積み重なっていつの間にか『強大で厄介な現実の壁』が誕生する。そいつをなんとかせねばと焦ったときには時すでに遅し。一発でチャラにする、リセットするしか手が無い。「待った無しの選択肢」だけが残ってしまう。 「最初はささいな小火だったのに、消火活動が遅れて大火事となり、火事をおさめるには建物ごと破壊するか、全て燃やし尽くすまで待つか、二つに一つしかない!」みたいな状況。
  
 
手入れや掃除は、「心の錆」を取り払う「行」そのものです。それは単に「部屋を綺麗にする」という目的を達成する手段ではなく、部屋のほこりを払うと同時に、僕らの心に日々溜まっていくゴミを払うということでもあるのです。
仏教の「行=実践」(仏教には法=理論、行=実践、方便=他者に影響を与えること、の3つの柱がある)は、別にヨガや瞑想、ランニングや筋トレのように「いかにも」なやつじゃなくても良い。
掃除、洗濯物たたみ、アイロンかけ、皿洗い、靴みがき。平凡な日常のルーチンでかまわない。
とにかく集中して全力でやるのがポイント。「これ終えたら次あれをやらなきゃ」とか「張り切り過ぎると疲れちゃうしな」とか考えない。「今、ここ」に集中。僕の場合は気を抜くとすぐに嫌いな上司の顔が浮かんでしまう。なかなか難しい。
  
 
いくら「あなたの心」が荒れ狂っていたとしても、その奥のほうには、静かで、落ち着いて、穏やかな「あなた自身」がいる。大嵐のときでも、深い海の底にはそれまでと変わらない安定した水域があるそうですが、「あなた自身」というのは、荒れ狂う感情とはまったく別の層に「ある」ものなのです。
一日のほとんどを暗い気持ちで過ごしていても、明るい気分で過ごしたたった1パーセントの時間のほうを、僕らは「本来の自分」だと感じる。それはもしかすると、僕らは「明るい心の自分」こそが本来の姿であることを、心のどこかで直感しているからかもしれません。 
  名越さんが他の著書でも言っているけれど、仮に心を「天気」に例えるならば、
「どんよりした曇り空が本来の自分の心で、 たまに見える晴れた青空は、偶然のラッキーというか、何かの思し召しみたいなもの」そう考えている人は多いんだとか。
僕も今までそう思いこんでいた。
 
けれど仏教の考えでは、
爽やかに晴れた青空こそが本来の自分の心であり、今はネガティヴな出来事や環境によって、少し曇ってしまっているだけだよ」となる。
これはけっこう眼からウロコだった。
その静かな心の状態を、1日の中で出来るだけ長くキープできるように、ぼちぼちと「行」に取り組んでみようと思った。
「仕事帰り、駅から家までの道、一歩一歩を意識して、集中して無心で歩く」そんなことからでも良いのだから。
 
タイトルの『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』という疑問を、一度でも抱いたことのある人には是非読んで欲しいなあと思う。 サクッと読めます。