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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

村上春樹の描く「邪悪なもの」が変わってきてる。色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上春樹著

村上春樹 本の感想

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村上春樹の小説には、
『暴力的、悪魔的なダークな存在によって大切なものを損なわれた人々が、それを取り戻すためにもがき、彷徨い、生きる道を見つけ出す』
 
という共通構造があると勝手に思っているんだけれど、
 
例えば、『ねじまき鳥クロニクル』の〈ワタヤノボル〉のような、暴力的、悪魔的人物、「こいつ悪いやっちゃなー」と言いたくなるような悪は登場しない。
 
特定の、目に見えるダークな存在は出てこない。
 
その代わりに、
 
『誰も見てないところで、ひっそりと息を殺し、真綿で首を絞めるように人々を死に導く悪』
が、描かれている。
 
これまでも、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の〈やみくろ〉や、『1Q84』の〈リトルピープル〉のように人の心に潜む邪悪さの集合体、つかみどころのない闇のようなものが描かれることがあったけれど、それでも、そいつらにはちゃんと特別な名称が与えられ、物語の中で『さあ思う存分暴れーや』とポジショニングがされてた。
 
この『色彩を持たない多崎つくる〜』には、『やる気100%の悪』は出てこないにもかかわらず、主人公含め、周囲の人々が、いつの間にか知らず知らずのうちに生きる輝きを損なわれてしまう。それが、すごく興味深いと思った。
 
あの子は性格的には内気だったが、その中心には、本人の意思とは関係なく活発に動く何かがあった。その光と熱があちこちの隙間から勝手に外に漏れ出ていた。言ってることはわかるだろう?でもおれが最期に会ったとき、そういうものは既に消えてなくなっていた。まるで誰かが裏にまわってプラグを抜いたみたいに。
 
たぶん今の時代、分かりやすい悪は表にあらわれにくくなってるんだと思う。
人が意識できない(本人すら気づかない)地下水脈みたいなところで、本当に些細な、微かな悪事を働く。こっそりとプラグを抜くみたいに。その微細な悪が積み重なって限界水位を越えたとき大きな事件となる。そんな感じがする。
 
政治や経済だって、レーニンとかヒトラーのような1人のカリスマ性ある独裁者や革命家が大転換を起こすわけじゃない。大衆のなんとなくの雰囲気、空気感が、世の中の流れを作っていく。一人の極悪人より、大勢の善人であろうとする大衆が何よりの悪。
 
誰かを殺したいと思ったことなんて、つくるには一度もなかった。しかしあくまで象徴的に、彼はユズを殺そうとしたかもしれない。自分の心の中にいったいどんな濃密な闇が潜んでいるのか、つくる本人にも見当はつかなかった。彼にわかるのは、ユズの中にもおそらくユズの内なる濃密な闇があったに違いないということだ。そしてその闇はどこかで、地下のずっと深いところで、つくる自身の闇と通じあっていたのかもしれない。そして彼がユズの首を絞めたのは、彼女がそれを求めていたからかもしれない。
 
「欧米は罪の文化。日本は恥の文化と言われるけれど、とにかく日本という国には、『臭いものに蓋』する傾向(放ったらかして気づいたときは腐って手遅れパターン)がある。自分は清廉潔白だと思いたくて仕方ない。僕もだけど。
加害者としての自分を自覚できるか。自分の中の悪をモニタリングできれば、その先に他人を許せることもあるかもしれない。
真の意味で傷を負っていたのは、あるいは損なわれたのは、多崎つくるよりむしろその二人の方だったのではないか。つくるは最近になってそう考えるようになった。おれは内容のない空しい人間かもしれない、とつくるは思う。しかし、こうして中身を欠いていればこそ、たとえ一時的であれ、そこに居場所を見いだしてくれた人々もいたのだ。
個人的な村上春樹ベストは『ねじまき鳥クロニクル』だけど、本作も良かった。