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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

猫が好きだからこそ”猫を飼わない”という選択。

家から徒歩15分くらいのところに保護猫カフェがあるという事を知った。先日行ってきた。

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猫が好きなのに、ペット禁止の賃貸住まいの僕みたいな人間にとっては、近所の散歩がてらの距離に、猫と触れ合える場所があるというのはとてもありがたい。
いつかは『ペット可』の部屋に引っ越して、好きな名前をつけて、365日寝食を共にしたいという気持ちがある。
 
でも、保護猫カフェにいる猫たちを見ていて、『猫が好きなら、飼えば良い』という今まで当然のように考えていたことが、必ずしも正しいわけでもないのかもな、と思った。
 
飼う側の人間も完ペキではない。
 
猫を飼ったとしても、飼い主である自分が死ぬかもしれないし、急にアレルギーが発症するかもしれないし、飼えないほど経済状況か困窮するかもしれないし、マンションの規約が変わってペット禁止になるかもしれない。「そこまで心配しだしたらキリねーじゃん」というのは正論だけど、誰にしたって、猫が飼えなくなる可能性を含んでいることは事実。
もちろんいざとなれば、家族や友人知人にパスすることもできるけど、猫にしてみれば環境の変化はあんまり気持ちよくないだろうなと思う。
 
一緒にいることだけが愛情とは限らない。
たとえ一緒にいなくても、見守りながら支援したり応援したりする愛情だってある。
 
飼わずとも、保護猫カフェに定期的に通ったり(料金はそのまま運営費になる)ときには差し入れしたり(スタッフさんへのお菓子やお弁当でも良い)、ストレートにお金という形で寄付したり、ボランティアで人手として手伝ってみたり。
 
そういった行動は保護猫カフェの維持につながる。保護猫カフェという『場』さえ、長いあいだ失われず守り続けることができれば、たとえ入れ替わり立ち代わりだとしても、有志が集まり、運営していくことができる。長く運営できればできるほど、それは一匹でも多くの猫を受け入れ、里親に渡せる機会を維持していくことでもある。また、地域猫という、野良猫を去勢・避妊して、エサをやったり世話をするという活動もある。
 
もちろん、保護猫や地域猫たちに飼い主が見つかることが何より一番大事だから、 決して飼うことそのものを否定するわけじゃない(僕も条件さえ揃えば里親になって猫を飼うと思う。それでも保護猫カフェには行くだろうけど)
 
ただ、とかく人は、自分の愛するものや好きなものを、自身の所有物として囲い込みたがる。親子関係、恋愛、職場、世の中のあらゆる場所で同じようなことが行われている。身内の幸せだけを優先して、それ以外は意識の外。
 
「ここからここまではわたしのもの」という考えはもう古いんだと思う。それぞれのパーソナルスペースを尊重するのは大前提として、「全てのものは全員のものであると同時に、誰のものでもない」という価値観がこれから必要なんだろうなと思う(シェアハウスやカーシェアリングもそうだし、何百万の人が参加するフリマアプリも同じような気がする)
 
猫でも犬でも、動物と一緒に暮らすのは素晴らしいことだけど、その誇らしい気持ちと同じくらい「この子は私のところにきて本当に幸せだろうか」というくらいのシビアな自己点検の気持ちも持ち合わせなきゃと思う(自信を持つなとかそういう意味ではなくてね)