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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

今の仕事が虚しいと感じている人は、全て自己責任だと思わず、たまには社会のせいにしてしまえばいいよ。

今の仕事が楽しくない。やりがいがない。どれだけ働いても満たされない。…と感じてる人は多いのだと思う。僕もそう。

 そいでもって、その居心地の悪さを、「自分に突出した能力がないから」「勉強してこなかったから」「学歴がないから」「真剣に就活しなかったから」「やりたいことを見つける努力を怠ったから」…と、自罰的&自虐的な自己責任論で終わらせてしまっている人も、同じくらい沢山いるのでは、などと考えたりする。

  でも、よくよく考えてみれば、2016年の現代、日本という国においては「自分自身が心から満たされる仕事」などというものが、極めて存在しづらい社会になっていることに気づくんじゃあなかろーか。もはや幻想と言ってもいいかもしれない。個人の努力云々ではなくて社会の仕組みによって、働く人の多くが「仕事は虚しい」と感じてしまう状況が作られてしまっている。

 例えば狩猟採集の時代。獲物を狩る行為そのもの、労働そのものが生きることだった。稲作や農業もそう。己の身体と知恵と五感をフル稼働して生きる糧を得る。そこには「満たされるか?」とか「人生を感じるか?」という疑問すら存在しなかったはず。

 それと高度経済成長期。働けば働くほど自分も周囲も豊かになり、「家電三種の神器」や「いつかはクラウン」という言葉のように、みんなが同じようなモノを欲しがって、みんなが同じテレビ番組を見て、同じ歌手の歌を聴いていた時代。「みんなと一緒にとにかく前に進む。そうすれば自分も家族も社会も目に見えて豊かになっていく」そんな一体感を身体レベルで感じられた時代。

 要するに、上の二つの時代は、みんなと一緒に汗水たらして、身体動かして、働いて、価値を生み出し、その価値をそのまま自分も享受できていたわけです。これってある意味けっこう幸せなことだったんじゃないかなー。(小学生の頃、とりあえずFFかドラクエか少年ジャンプの話をすればみんなの輪に入れていた、あの安心感にちょっとだけ似てるかもしれない)

 でも2016年の現在、そんなかつての労働観はどこかに消え去ってしまった。餓死の心配はなくなり、みんなと共有することよりも、それぞれが自分だけの娯楽に興じることに多忙で(ウォークマンに始まり、iPod、そしてスマホ。最近じゃVRのゲーム機器も話題になってる)一見、みんなとの共有感を生み出すように見えるSNSまでも、誤解を恐れず言えば「人と自分の違いを発信するためのツール」としてしか機能しなくなってるんじゃなかろーか(これはかなりネガティヴな見方だけど)

消費はいつからか、「私は人とは違う」「自分は自分のセンスでこれを選んでる」という自分と他者を差別化して得られる自意識の満足のための行為になっちゃった。

 つまり記号みたいなもんです。モノを消費するというよりも、モノを所有して身につけた時に得られる自尊心やステータス(のようなもの)を消費している。サービスを売る側も、たとえ目に見える商品を扱っていたとしても、実際に顧客に渡しているのは、その商品が持っている記号性なわけです。虚構と言っても良いかもしれない。さらには分業化がすすみ「自分は所詮、歯車の一部」という感覚も強くなってきて、「他所で作られたものを、他所からやってきた自分が、他所の全く知らない人の自尊心を満たすために働く」というなんとも実感を伴わない仕事が溢れているように思う。

だから今、仕事がつまらない、虚しい人生だと感じてしまうのはあなただけが悪いんじゃない。社会の仕組みそのものに大きな原因があるわけだから。

そんな大前提を踏まえた上で、そもそも「満たされる仕事」ってなんぞや?ということを考えていきたいと思う。それは上に書いた「身体と五感を駆使する仕事」にヒントが一つあるように思います。やっぱりモノづくりかな。農業かー。