わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

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シン・ゴジラ感想(微量のネタバレあり)なんでもありの虚構 対 事実を積み重ねるしかない現実

どーもcoyoteです。

いやー、見てきましたよ。

庵野監督がゴジラをやると聞いてから本当に楽しみだった。

待ち望んでました、ほんと。

 

ニッポン対ゴジラ

今回、ゴジラ以外の怪獣は出てこない。序盤であいつが現れたとき「アンギラス?」と思ったけど違った。(あの生理的嫌悪感がMAXになる姿は、深海魚のラブカをモチーフにしてるんだとか)

ゴジラと戦う怪獣がいると人間側はある意味で楽。モスラでもキングギドラでも何でもいい。その間に避難したり作戦立てたりできる。でも今回、ゴジラのケンカ相手をしてくれる人間にとって都合の良い怪獣は最後の最後まで現れない。まさにニッポン対ゴジラだった。

庵野監督は今回のゴジラの「目」にもこだわり、「下を見ている」造形にしたらしい。今までの平成ゴジラの目が、対峙する怪獣を睨みつける「上目遣い」なのにたいして(平成ゴジラがたまにイケメンに見えるのはこれが理由かも)下界を、人間たちを不気味に観察する「見下ろす目」本当に怖かった。

 

 

「虚構 対 現実」というキャッチコピーから感じたこと

虚構とは妄想が生み出すもの。だから『なんでもあり』なわけです。

上陸しても自重で潰れたりしないし(「え、動くの?」には笑った)現実の災害のようにピークを越えれば徐々に沈静化することもないし(むしろどんどん進化して強大化する)自衛隊の武器もぜんぜん効かない(米軍の空爆が効いたと思ったらブチ切れてあんなことしちゃうし)

『物語の中に登場した拳銃の弾丸は必ず発射されなければならない』

そんな言葉をどこかで聞いたけれど、厄災としてのゴジラは徹底的に日本を破壊して蹂躙しなければならない。そう生み出されてる。そう設定されてる。容赦とか遠慮という言葉が存在しない。日本人が大好きな「こうなったら良いな」という希望的観測は通用しない。それが虚構。”なんでもあり”だから、ある意味、満たされた世界かもしれない。そこでは全てが予定調和の中に在って完結している。ご都合主義と言ってもいい。

 たいして現実は、「現実は残酷」とはよく言ったもので、やれば前進するし、やらなければ停滞するし、失敗すれば後退する。とにかく行動を積み重ねることで変化を起こすしかないというシビアさ、言い換えれば”面倒くささ”がある。

記者会見一つ開くために許可を取り、ミサイル1発打つのに許可を取り、「この決議は〇〇室にて行いますので皆さん〇〇室にご移動ください」と「移動教室かよ」とツッコミたくなるようなチマチマした現実的な段取りを積み重ねながら、現実側である日本政府や自衛隊ゴジラ対策を練っていく姿に、120分間心が打たれっぱなしだった。

現実は、希望も絶望も両方とも内包している。悪い出来事と同じくらい、良い事が起こる可能性も僕らに用意してくれている。どっちに転ぶかは自分の行動次第。「やってみなきゃわからない」という至極単純なメッセージを改めて突きつけられた映画だった。あれ、この感じどこかで……人類補完計…いや、何でもない。庵野監督にとって一貫したテーマなんだろうな。ふと、エヴァ碇ユイのセリフを思い出す。

「生きてさえいればどこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの」

 とはいえ、野党の存在がないとか、皇室の存在をスルーしてるとか、無人型の在来線のアレとか、現実的でない部分もあるから『しょせんエンタメ。それこそ虚構じゃん。ご都合主義』と言われるかもしれない。ただ庵野監督はじめ、制作者たちがこの「シン・ゴジラ」という最高の映画を作り上げた事実こそが、現実の可能性を証明してくれてるんじゃないか、などと思う。メタ的なやつね。

 最後ですが、今作の地味に良かったところひとつ。物語ラスト、事態が収束したときにありがちな「やったー!!わー!(拍手、そして近くの人と抱き合う)」みたいな演出が一切無かったこと。

拝借致しました。ほんとその通りだと思う。

 生まれてはじめて、同じ映画を2度見に行くかもしれないです。

 ちなみに公開前の考察みたいなのはこちら↓

公開前だけど『シン・ゴジラ』の顔がめっちゃ怒ってる件について考察してみた。 - わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。