わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

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【本の感想】人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 森博嗣

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森博嗣さんはスカイクロラのシリーズが好きで、エッセイも何冊か読んでいたのだけど、この方の考えや語り口は、僕にとってあまりに正しく、理性的で、バランスがあり、憧れの対象だったため逆に少し距離を置きたいという気持ち(そういうことって僕はよくあるんですけどどうなんですかね)で、なかなか著書を手に取れませんでした。

 

以下、僕的な要約です。

 

とにかく「具体的な」ものばかり求めてくる世の中。

世の中のほとんどの人はとにかく「具体的に」考え過ぎなのかも。自覚してるなら大丈夫だけど、無意識にそうなると視野が狭くなって感情的になってしまう。もっと「抽象的に」考えてみてもええんちゃう?というのが本書。

もちろん仕事や日常生活には、「具体的に」考えないと物事が前に進まない場面もたくさんある。上司とかがよく言うでしょ「もっと具体的に説明しろ」って(で、細かく説明すると「もっとわかりやすく!」と言われることも多々あるけどね)とにかく、具体的な思考と同じくらい抽象的な思考も大事。要はバランス。

 

「抽象的」を説明するためには「具体的な例」を避けられないジレンマ。

で、「抽象的な思考」って一体なんぞや?という話なんだけど、例えば……ちょっと待ったー!ここで「例えば」という言い方をした時点でそれは抽象的ではなくなり、「具体的な」話になってしまう。このジレンマ。だから「抽象的な考え方」を誰かに伝えるのってむずかしい。

 

バール”のような”もの。

例えば、たまにテレビのニュースでアナウンサーが「バールのようなものでドアがこじ開けられ、中にあった現金が〜」と言ったりする。あの「バールのような」はまさに「抽象的な」言い方。実際に使われた凶器がバールそのものではなく、バール以外のハンマーやらノコギリやらの可能性がある以上、「バールでこじ開けられ〜」と断定してしまうのはちょっとマズイ。「バールのような」という抽象的な言い方をすることで視聴者にガチガチな思い込みをさせないようにしてる。

 

抽象的に考えたときの発想は∞

例えば、誰かにジュース買ってきてとお願いするとき、

①「サッパリしたいからコーラ買ってきて」

と、

②「サッパリできる何か買ってきて」

という言い方がある。何が何でもコーラを飲みたいなら①でいいんだけど、あえて②の言い方をすることで、相手は幅広く考えて、新発売の炭酸ジュースを買うかもしれないし、自分も一口飲みたいからと、好物の”なっちゃん”を買うかもしれないし、飲み物にこだわらず、もしかしたら柑橘系のシャーベットやチューペットを買ってくるかもしれない。どれもサッパリできることに変わりないから。「サッパリできる何か」という抽象的な言い方をすることで、相手の自由な想像力と発想力を活性化させることができる。頼んだ方にしても、思いもかけずコーラ以外の新たな発見ができるかもしれないというメリットもある。

 

抽象的に考えて、具体的に行動するという黄金パターン。

「抽象的な考え方」は上手に使えば武器になる。けれど気をつけたほうがよいのは、考え方が抽象的になるあまり、実際の行動まで抽象的になってまうこと。僕らの目の前に積まれた問題というのはとにかく「具体的な」ものばかり。そしてそれを解決していけるのは、自分の手足を動かして行う「具体的な行動」のみ。だから、まずはぼんやりと抽象的に思考して発想を生み、そのうえで具体的行動にうつして形にしていく。言ってしまえば当たり前のことなんだけど、意識して「抽象的」と「具体的」を使い分けることができたら一番良い。

 

 

以下、印象に残ったところいくつか。

「あの島が日本のものだったら良いな」とは感じる。でも、そんな希望で話をするわけにはいかない。注意してもらいたいのは、「願い」を「意見」にしてはいけない、ということだ。

 もしかしたら議論する価値とは『異なる意見を一つの大きな願いに変えていくこと』なのかな、などと思った。みんなの意見を包括できるような客観的視点という意味での『願い』。

 

戦争だって、国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが、その国民の声がいつも正しいとは限らないことを、歴史で学んだはずである。

 一人の極悪人なんかより、今一番怖いのは大衆化した善人。リトルピープル的な。

 

一つ確実に言えるのは、「大きい声が、必ずしも正しい意見ではない」ということである。

「良いニュースは小さな声で語られる」とはよく言ったものです。

 

クリスマスイブには彼女とホテルで食事しなければならないとか、日曜日は家族を連れて行楽に出かけなければならないとか、子供の運動会ではビデオ撮影をするのが使命だとか、そんな具体的な「やり方」に縛られている(この三つの例は、いったい誰が得するのか、と考えてみよう)

 「1日3食。30品目食べよう!」とかも同じだよなあ。儲かる人がいるわけです。

 

歳を取ると、自分に無縁なものが増えてくるし、割り切れるようになる。なんの足しにもならない(ならなかった)、と処理する。こうして、欲求はすべて小さな具体的なものばかりになり、予感や願望だけの「美しさ」は無益なものとして排除される。ついには、もう毎日の自分の身の回りの損得しか考えなくなる。

 僕はたまにミニマリズムがあーだこーだと語ってるけれど、下手するとこの傾向に陥りがちなのでドキリとした。

 

わからないままにしておけないのは、それだけ思考能力が衰え、単純化しないと頭に入らない、という不安があるためだろう。

 仏陀さんだったか、釈迦さんだったか忘れたけど「悟りを開くとは、目に映るすべてのものを細かく、且つ明瞭に認識すること」みたいなことを言ってた。グラデーションの何百万分の一の色相を判別できるってことなのだろう。

 

人間というのは、遠くに目標が見えているのに、目の前に道があれば、方向が違っていても、もう今の道を歩くしかない、となってしまう。そのうち下ばかり見て、道しか見なくなる。具体的な手法を与えられると、その手法に拘ってしまい、目標を見失うことだってある。

 「運命を変える」というのはつまり、「遠くに見える理想のゴールを常に心に持ちながら目の前の細々したタスクを軌道修正していくこと」なんだな。簡単じゃないけど。

 

グサグサ突き刺さるコトバが盛り沢山でしたがとても楽しく読めました。読まず嫌いは良くないなー。