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わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

読書。独学ヨガ。ミニマリズム。わからないことだらけ。

風呂での読書について思うこと。

僕は風呂でよく本を読む。昔からだ。風呂で読書するメリットはいろいろある。個室に1人だから集中できるし、半身浴でゆっくりつかりながら読めば汗もかいて代謝もアップ。身体にもいい。

しかし、やりすぎは禁物だ。

二〇代の半ばごろ、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にはまったときは、あの3巻にわたる長い小説を毎夜毎夜の風呂タイムで飽きもせずに読んでいた。たぶん1〜3巻を4周くらい読んだ。おかけで第1巻などはもうボロボロである。

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浴室内の湿度、水しぶき、手指からの汗で、本の項は濡れて曲がり、そして乾き、パリパリになる。古本としての価値もとうぜん失われる。元どおりにもどすことはできない。「不可逆」である。しつこいけれど、ドラマ「カルテット」的にいうところの「からあげにレモンをかける」と同じ。世の中は不可逆なものであふれている。

「付箋を貼りながら本を読むこと」の記事でも書いたように、夢中になった本、 お気に入りの本だからこそ、線を引いたり、水びたしでパリパリになどせず、きれいなままにしておきたいと思う。だから風呂で本を読むときは、換気扇をつねに回して湯気を逃がし、濡れた手ではけっしてページをめくらない。完全防水ブックカバーなるものがあるらしく、ちょっと気になっているくらいである(どれだけ濡れても気にならない『風呂読書用の本』を何冊か用意しておくというのも一つの手かもしれない)

けれど、ふと思う。

あの頃たしかにあった「本が濡れてひん曲がってバリバリになることなど気にもせず、ただひたすらに本の内容に没頭していた自分」は、どこか遠くに去ってしまったのだな、と。

二〇代も後半にさしかかったころ、僕は若くしてかかげた目標をあきらめ、夢から遠ざかり、アルバイトをかけもちしながら将来へのぼんやりした不安をかかえて淡々と日々を暮らしていた。そんな小さな絶望から目をそむけるために、あるいは救いを求めるために、読書にふけっていたのだと思う(そのとき手にとったのが、たまたま村上春樹の小説だったのか、もしくは村上春樹の小説だったから、そこまで読書に没頭したのか、今になってはわからないけれど)

とにかく、そのころの僕は風呂で本を読むというのにブックカバーすらかけていなかったし、本を浴槽のふちに置いて放置したまま髪を洗ったり(ほんとうにひどい)、睡眠不足のまま寝落ちして本を風呂ポチャしたことも何度もあった。なんとも稚拙ではずかしい。ただ、そんな横着で、大雑把で、青くさい読書体験を、今になって少しいとおしい思えるような気がするのだ。

‥‥‥自分語りみたいになってしまったけれど、風呂読書はまだまだやめられそうにない。休日の前の夜に、お気に入りの本とあつあつのお茶、あるいはキンキンに冷えたジュースなどをお供に(なんならお気に入りの入浴剤も入れて)じっとり汗をかきながら本の世界に浸るなんて、やっぱり最高だと思うから。