わかったつもりでいたけれどほんとうはわからなかったこと。

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疲れない旅行は旅行ではない「辺境・近境」村上春樹著

僕は海外旅行というものをしたことがない。20代から好きなことばかりやっていて、鳴かず飛ばずのうちにあれよあれよと就職して(よくある妥協である)結婚をして、念願の猫を飼い始めて、ホッとしたところにその猫が腫瘍の闘病に入り(これはほんとうに悲しい)気づけば、うかつに数日間家を空けるのがなかなかむずかしい状況になり、ずっとタイミングを逃し続けている……というのはあくまで外的な要因であって、結局のところ、僕という人間がひどい出不精で、家大好き人間であることがもっとも大きな理由なのである(その気になればペットホテルを活用する手だってあるのだし)

 

それでも時々、「ああ、旅に出たいなあ」と強く思うことがある。「遠い異国の地の、名前も知らない街の路地裏で、1人迷子になり、フラフラさまよいながらテキトーなカフェやバーに入って、その土地の料理と酒を楽しみながら(僕はひどく酒に弱いのでお茶で良いけど)街の風景をぼんやり眺めたりしたいなあ」と。

 そういう気持ちになる時というのは、だいたいにおいて休日明けの朝に出勤のため最寄駅へ向かって歩いているときや、職場で横暴な顧客対応をこなして一息ついたとき、そして村上春樹の旅行エッセイを読んだときである(やっと本題である)

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作家の旅行エッセイというと、「人気作家が取材ついでに外遊するような呑気で優雅な旅行でしょう?」などと想像してしまうのだけど、本書で著者はかなりハードな旅をしている。「苦行」と言ってもいいかもしれない。瀬戸内海の無人島でクラゲに刺されたり、ゾウリムシに身体中を這われたり、メキシコで一日中メキシコ歌謡曲を聞かされたり。 モンゴルで絶望的な悪路を安トラックで何日も走行したり。とくにメキシコ編は読んでるだけで頭痛が襲ってきそうなほどひどい内容だった。

 

疲れない旅行は旅行ではない。延々と続くアンチ・クライマックス、予想はずれ、見込み違いの数々。シャワーの生ぬるい湯(あるいは生ぬるくさえない湯)、軋むベット、絶対に軋まない死後硬直的ベット、どこからともなく次々に湧きだしてくる飢えた蚊、水の流れないトイレ、水の止まらないトイレ、不快なウェイトレス。日を重ねるごとにうずたかく積もっていく疲労感。そして次々に紛失していく持ち物。それが旅行なのだ(86ページ 「メキシコ大旅行」より)

 そういえば村上春樹の小説の主人公たちも、物語の中で何かしらの「メチャクチャな状況」に放り込まれながら、それを何とかして通り抜けたりくぐり抜けたり(ときにあるがまま受け入れたり)することで、物事の核心に近づいて行くことが多い。そういう物語を書いてるからこういう苛酷な旅をしたくなるのか?あるいはこういう旅を経験するからああいう物語が生まれるのか?そんなことを考えながら興味深く読めた。

 また、毛沢東 の「疲弊は疲弊によって乗り越えられなくてはならない」という言葉が引用され、「この旅のメチャクチャさに比べれば、僕の現実の悩みなんてたいしたことないなあ」と相対化できることが旅をする理由の一つだとも語られる。「そうだなあ」と思う反面、それをわざわざ「旅行」という、本来は娯楽であり、リラックスして過ごす余暇行為でやろうとするのだから、なかなかエキセントリックというか、マゾヒスティックな考え方だと思う。

 

どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうかと。(230ぺージ「ノモンハンの鉄の墓場」より)

僕はどちらかというと「自分探しのために遠くに旅に出る」という行為にたいして、「旅行で見つかる”自分”なんて、果たしてどれだけのものだかね」という、ひどく懐疑的な考えた方をしていた。でもそれはまちがっていたのかもしれないな、と本書を読んで思う。というかそもそも、遠くの国に旅行したことがない人間が口に出そうと出さまいと、そんな考え方をすること自体まちがっているのだ。気づけて良かった(手遅れかもしれないが)自分が知らない人だらけの場所、そして自分のこと知っている人も誰もいない場所、そんな場所に行ってこそ見えてくる自分というのもきっとあるのだ。